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🔛国語読解の方法の新視点

2024.06.04

🔛国語読解の方法の新視点
 現在、溢れている現代文読解の諸本では、明快な方法は、未だ提示されていない。
 石原千秋のシリーズは、すべて読み尽くした。予備校講師ものも評判のものは悉く読み漁ったが、明快な答えは見出せていない。令和4年の開成、筑駒対策として、ある問題集を秘策として使った。これは大成功であった。今後もこの問題集は使うとしても、国語読解指導の明快な指標は得られていないままである。
 最近、面白い参考書を読んだ。読解と読むとは違うという主張は説得力があった。平易な、空き空きな文章なので、サッと読んでしまった。
 この著者は、読解と読むの違いを、比喩を用い丁寧に説明している。読解とは、内容を読み取ること、それに対して読むとは、例えば、家電の取扱説明書みたいなものだという。なるほと、そのとおりだと思う。
 ここで、私見を一つ述べれば、境界知能周辺にある子というのは、取扱書レベルで「わからない」ということになる。取扱を親切に書いている文章が、何を言っているのか、わからない、というのである。
 算数でも、数学でも、最初の定義の部分は、取扱説明書と同じ働きをする部分である。この定義、つまりは「約束」の部分は、わかるわからないという場面ではない。しかし、境界知能周辺の子たちは、取扱説明書を読めない子たちであるから、推して知るべしである。取扱説明書は、読む🟰わかる、のレベルである。定義は、例えば、平行四辺形とは、2組の対辺が平行な四角形とする、というように、約束である。これは「わからない」とかいう問題ではない。取扱説明書は、「わからない」という問題にはならないように、読むイコールわかる、つまり、具体的な説明しかない。
 小学生に逆算を教えるとき、それは、逆算の定義から説明していくが、その説明に抽象的な部分が入れば、子どもたちはたちまち拒否反応を示す。だから、逆算はいかに具体的にその取扱を説明するか、であるが、そうは言っても簡単ではない。前提として、計算は完全マスタせてから逆算に入る。完全マスターとは、難関中学の計算問題が解ける段階をいう。竹の会では、小2の冬に到達した子たちが最速であった。いいですか。あなたたちの子ども、小2がのんびりと学校の宿題と習い事で緩やかな時間を過ごしている間に、竹の会の子どもたちは、もちろん緩やかなことは変わりませんが、早い子で小3には、芝中レベルの算数の問題を解いている。そういう子たちが、小5、6になったころ、竹の会にやってきた小4や小5、そういう子たちは、それまで勉強らしい勉強をしてこなかった、そういう子たちが、小2から鍛えてきた子たちのレベルに達することは、普通はありえないことです。いくら大手塾に小4あたりから行っていたとしても、鍛え上げた質が違いすぎます。
 さて、話しは、読解論でしたから、そこに戻ります。こうして境界知能周辺の子は取扱説明書も読めないということがわかります。実は竹の会の入会試験の必須問題は、この取扱説明書問題なわけです。まず取扱を説明した文があり、この取扱を使って問題を解く構造です。これが解けない子は、そもそも指導は最初から無理なのです。竹の会でこの問題が解けないで入会した子は、ほとんど伸びないことがわかっております。
 取扱説明書が読めない子は、算数は無理なのです。一緒に解いていく、介護型の指導しかない。そういう塾があるようです。
 国語の読解とは、この取扱説明書が読めるレベルの話しではない。文章で表現されている、抽象的な概念、価値観、それを正当化する論証、そういった文章を総合して、判断する、推論する、推測する内容のことなんです。取扱説明書の場合は、文章で書かれているのは、具体的な、例えば、ネジの取り付け順序とか、一文一文が具体的なものについてのものです。作業手順です。これが理解できないというのは、IQが低いということなのです。
 読解とは、一文一文から想定される抽象世界のイメージ、内容を頭の中に描き、論理的に構造化された世界を構築することである。読解とは、単なる取扱説明書と違い、一文一文が論理的な関係から、一定の内容、まだ見えない、朧げな内容を、さらなる一文、さらに一文を読み、より鮮明に、目には見えない内容を明確化していくことである。単なる取扱説明書の一文は、その一文で、具体的な内容が明らかである。例えば、次は、②の木片にネジをつける、とかである。
 入会試験ができないという子は、取扱説明さえも理解できないレベルである。少なくとも竹の会の入会試験はそう作っている。だから竹の会の入会試験ができない時点で、受検は諦めた方がいい。
 読解とは、算数の問題とは違う。算数は、一文から見えない主張を推論するというものではない。もちろん文章は関係性事実を述べている。その関係事実から、未知数を求めよ、というのが算数である。関係性から、見えない関係性を見つける。その発見が未知数をもたらす。
 このように算数は、国語の読解とは、本質的に違う。
 さて、それでは国語の読解を磨くには、どうすればいいか。
 問題集を解くというのは、いい方法である。ただし、問題集はただ解くのでは意味がなく、先の見えない事象を一文一文から見えるまで読む、分析する、といった、意識をもって読むことである。読解とは、文章を見ただけでは、見えない抽象世界を推測する、イメージ化する、ことである。その映像が脳に明確に描けているか、ということである。したがって、問題集の文章から、筆者が言わんとする概念像が形を、輪郭をもって、明確化できるか、ということである。
 ある本によると、読解力をつけるには、漢文を読むといいとあった。漢文は、中国語であるから、その構造は、英語とほぼ同じである。つまり、主語がかならずある。そして次に動詞がくる。日本語のように途中にあれこれと盛り込んで最後に述語がくる言語では、主語と動詞の対応が曖昧、見失うことになるというのである。ここからわたしたは、文章は、主語と動詞から文意を明確にする、ということの大切さを忘れていることを知らなけれならない。

 この話はまたいずれ会員ページで詳細に述べます。

 

 

 

 

 
  
 

 

 

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