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都立桜修館合格を可能にする方法とは

2023.04.04

都立桜修館合格を可能にする方法とは

 竹の会で落ちて、失望した人たちが、後になって、高校入試で成功し、思い返せば、竹の会で算数をこれでもかと鍛えてきたおかげだったのか、と思いあたり、お礼の手紙が寄せられて、来ることが、本当によくあるのです。何年か経って竹の会の真意が理解される。
 落ちた時は、竹の会は恨まれ、個人塾ゆえに恨みの対象となる。これが大手なら、そう大手の大量の不合格者が、大手を恨んだという話しを聞いたことがない。大手が悪かったと思う人はいたかもしれないが、大多数は試験というものの難しさに自分が届かなかったと考えて終わるのではなかろうか。
 竹の会で算数を、思考を日々鍛えてきた子たちが、たとえ試験には報われなかったとしても中学で飛躍する、あるいは困らないということを実感しているなら、わたしはわたしのやってきたことが、無駄ではなかったと、少しだけほっとしていいのだろうか。
 わたしは、いや竹の会の方法は、受検(都立中学)の基礎として、受験(高校入試)の基礎として、まず、算数力をつけることに全力をかけることをしてきた。小4なら、計算マスターに3か月〜、それから割合に2年~、割合を道具として、思考を鍛える、考えることから勉強とは何かを知らしめる。勉強とは、生活そのものだ、ということを悟らせる。そこから勉強へのスタンスができあがってくる、勉強の習慣というものが当たり前になってくる。それがわたしのささやかな狙いだったのだから。
 受検は失敗する方が圧倒的に多い。だから落ちても、公立中で困らないように、わたしは手当てしてきた。落ちたら恨まれる。個人塾の悲しさだ。しかし、いつかわたしの、竹の会の精神を、わかってくれる時が来る、そう信じて生きてきた。
 だからこそ、わたしはどうしたら合格できるかに腐心してきた。研究してきた。毎年の不合格をいちばん悲しんだのはもちろん本人と家族だろう。が、わたしは、心を抉られる痛みに苛まれてきた。わたしには、どんなに本人が必死になっても落ちることがわかっている。わたしの心の中では、冷酷な判定が迷うことなく確定している。
 都立中学受検とは、そういう試験だ。本人の思いがいくら強くてもどうにもならない。
 わたしは、高校受験とは、勝手の違う都立中学受験に、こうすれば受かるという方法を確立させたくて、彷徨う羊であった。
 子どもの才能は子ども自身を救う。責任感、素直さは、子ども自身を救う。そういう子に邂逅して合格してもそれはわたしの方法の立証にはならない。わたしは、才能ある子どもの指導法はすでに知っていた。そうではなくて、今回の合格のように、ギリギリの才能、強い合格への意志、模試で点が取れない、真面目に勉強するのに。そういう子を合格させて初めて、わたしの方法の立証に成功するのだ。
 都立中学模試は、かなりバイアスのかかったテストである。大手塾の模試は内部生に有利なように作られている疑いは消えない。また、複数の大手塾がバラバラに実施するから、母数は分散されて、各模試のレベルもチグハグである。信頼性は「ない」に等しい。
 竹の会基準による合格判定が信頼に足るか。
 竹の会で用いたレジュメ、そのレジュメのどれが、合格をもたらしたのか、その特定が急務であった。
 少ないレジュメを使った年ほど、合格率がよかった。
 もともとレジュメ・シリーズが初めて制作されたのは、平成24年の2月頃であった。23年12月からスタートした入会試験の問題作成が一つのきっかけとなった。平成17年から高校入試のためのレジュメ制作に用いた、数式ソフトに熟練していたことが大きかった。今までワードで作ってきた小学生のためのレジュメを数式ソフトで作ってみたらどうか、と閃いた。試験的に制作した入会試験問題をきっかけに、わたしはレジュメ執筆製作に没頭していった。24年に作ったレジュメは、「入会試験」シリーズ、「合格答案への道」シリーズ、そして「算数をクリアーにする」シリーズだけであった。このとき、このレジュメだけで、小石川、桜修館、白鷗に合格してしまったのだ。
 ただ、この時の合格は、子どもたちの才能に恵まれたことも否めない。わたしは、ただにレジュメの力だけとは思えなかったのだ。
 26年の失敗、3人全滅。
 白鷗を、受けた女子は補欠10番で落ちた。この子は宝泉理数インターに進学、6年後東北大に合格している。
 桜修館を受けた男子は、3年後都立日比谷、慶應志木に合格
 小石川を受けた女子は、3年後都立日比谷進学、杏林大学医学部進学
 26年の失敗は完全にわたしの采配ミス。不安のあまり過去のワード版レジュメを大量に投入して、失敗。
 27年桜修館、富士合格の年。反省してレジュメは25年を軸に、新作「推論を鍛える」シリーズを投入。
 わたしは、合格に資するレジュメの探求をしてきた。その中で子どもの才能のギリギリの限界線というものも見えてきた。「この」レジュメに正解を出せない子は、およそ受からない、そういうことも経験則としてわかってきた。
 だれでもレジュメをやれば受かるわけではないのだ。
 わたしのレジュメが、合格する子を見つけるのだ。
 わたしは、わたしのレジュメが、受かる才能のある子を選別することを初めて意識した。
 さらに私のレジュメが何層にもわたる問題の層を一枚一枚剥がしていく過程を通して、子どもたちの脳になにかが形成されている、なにかを経験している、思考の綾、粋をかぎ分けるなにかを目撃していることを実感した。わたしのレジュメが魔法のレジュメとなったのかもしれない。
 わたしには、何層にもわたるレジュメを作ることで、子どもたちを迷いなく導いていけるレジュメ創作技術がある。

 このレジュメ創作は今年の仕事の一つとなる。

とり

 割合の魔法の算数

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