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開成・筑駒制覇竹の会の 〜小説の読解の本質

2023.04.25

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〜小説の読解の本質
 参照 石原千秋「未来形の読書術」ちくまプリマー新書
 意識とは何か
 自分を客観的に語るとき、その意識は自分の外に存在し、外から自分を眺めているはずである。
 音楽を聴きながら勉強するというのは、どうだろうか。これは、意識が音楽以外の雑音を遮断する。それで音楽が気にならならなくなると、意識は勉強へ向けられるということになるのかと思います。だが、これには困った癖がついてしまう難点があります。例えば、試験場では音楽が聴けないから、却って強く、雑音、雑念に意識が向いてしまうことにならないか。つまり、試験に集中できるどころではないのだ。
 集中とは、意識のコントロールのことである。音楽を使って意識を遮断するのは、だめとして、それではどうするか。理想は、読み始めたら意識の置きどころが勉強の内実に入ることである。意識をコントロールする、ということ自体、意識がそもそも勉強に向かないことを前提としている。好きな趣味なら意識なんかコントロールしなくても、意識は対象に入りこんで、微動だにしない。意識のコントロールの必要はないのだ。

 集中とは、意識を内にとじ込め続ける無意識の緊張というバリアーを張ることである。
 内包された読者とは、何か?
 石原千秋が言ったわけではない。イーザーが言ったのだ。石原は、イーザーの立場に立って、論を展開しているから、その言説をそのまま認めて、内包された読者論を説いている、ことになる。

 小説の読解とは、内包された読者になることである。
 それでは、内包された読者とは、どのような読者なのか。しかし、その定義はそれほど明解ではない。
 石原の説く内包された読者の説明について、わたしなりに理解したところを解読してみよう。もしかしたら、小説文読解のヒントが得られるかもしれないという期待を持って、解析していきたい。
 まず小説を読んでいる私たちは、内包された読者ではない。本の外にいて、本を読む人、つまり、一般的な読者なのだ。
 内包された読者は、小説の中にいる。小説の中にいるとは、つまり、小説に内在する読者なのである。小説の中に棲む読者という意味合いであろうか。小説の中にいて、その小説を冷静に読む読者がいる、というのである。それは、小説の中に登場する人物ではない。それ以外の読者が内包されているというのだ。

 意識を内包された読者の位置におくことが、小説の読み方である。
 小説の中には、登場人物以外に、確かに、人物らしきものの影が見え隠れすることがある。俗にいう「語り手」である。
 石原千秋の記述を見て見ましょう。
 石原によると、語り手について、一人称のとき、つまり、「おれ」が語るときは、内包された読者と重なる、という。

 石原は、「坊ちゃん」の冒頭の一節「なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ」の「なぜそんな無闇を、したと聞く人」になることが、内包された読者になることだ、と言う。 
「坊ちゃん」は、「おれ」(一人称)が語る小説であり、内包された読者のテクストの内での位置とは、語り手の位置と重なる。

 それでは、三人称のときは、どうなのか。
 「三四郎」は語り手が三人称の小説である。

 「三四郎」は「その様子が幾分か汽車の中で水蜜桃を食った男に似ている」から、「三四郎が野々宮が広田先生に似ていることまで気づいているものの、二人が学者に特有の浮世離れした態度を取る人たちだということまでは気づいていない」ということまでも理解することである。そう読まなければ、三四郎の天然ボケぶりが浮かび上がらないからである。つまり、内包された読者はここまで深読みをするから、登場人物より頭がよくなければならないのだ。

 語り手が三人称の場合は、語り手の言葉の深読みをするのが内包された読者の仕事である。
 優れた内包された読者になるためには、教養のある読者でなければならない。当時の学制に詳しいこと、つまり、当時は大学が日本全国にまだたったの二校しかなかったこと、男子だけが入学できたこと、大学生は二百数十人に一人しか進学できない超エリートだったこと、高等学校は全国に数校しかなかったこと、今のように五千数百校もあると思って読んだのでは理解が全く違ってくる。
 だから上手に内包された読者になれたとしても教養のある読者と教養のない読者とでは、落差があり、この落差は埋められない。

 

 以下引用
 
イーザーの主張
 小説家は自分の言いたいことを書くために小説を書くのではない。自分のもっとも言いたいことを隠すために書くのだ。宝物が多く隠されている小説が古典の名に値する。一番言いたいことを書いてしまったら、一編しか小説が書けないからだ。
宝物はどうやって埋め込まれるのか。一つは、肝心の事柄を省略して書かないことだ。つまり、空所を作ることだ。
文学テクストは穴ぼこだらけだが、穴ぼこを埋めることで(内包された)読者はテクストの内部に入れる。読者がテクストの内部に参入するきっかけが空所だと言うのである。

文学テクストの内部にいる読者
 もう一つは、文学テクストの読者は自分の読み方を修正しながら読むものだということである。
内包された読者の仕事とは、内包された読者の位置=語っているいまの私の位置にだけ立ってこの文章を読むことである、

「物語は一つの文である」(ロラン・バルト)なら、「物語は一文で要約できる」ということになる。要約は、抽象的に要約するのである。
小説を主語が一つで術語が一つの短い文章で物語にまとめた文を「物語文」と定義するなら、たくさんの小説を読み、物語文を作り、物語文が似てきたらそれが型になる。
よく言う「主題」とは、物語文のことである。主題とは、解釈の要約であると定義される。物語文はふつう主題と呼ばれているものに近い。

「読者が自分を否定すること」とは、どういうことか。
イーザーは読書における否定作用が新しい自分を生み出すのだと言っている。否定とは、自己否定のことである。
なぜそのようなことになるのか。正直さっぱりわからない。
その後の本文を読んで見ると、
① 物語文に対応する細部を小説から拾い上げることは、「心理的抵抗」、つまり、「自分の読みとは何か」という抵抗に遭うのだと言う。するとこの抵抗の過程において、抵抗しきれなければ「自己否定」にまで至る、ということになる。自己否定の結果、つまり、抵抗に失敗した結果は、物語を受け入れるしかなくなる。これが、読書における否定作用が新しい自分を生み出すのだということの意味ではないか。
② 単純なこと。小説から物語文を作るのに必要な細部を拾い上げて行くには、小説を何度も読み込まなければならない。これはしんどい。

どう考えてもわけのわからない文章への対応について
わからなければ、「翻訳」して聞くという窮余の策
読解とは、抽象的な表現、概念をより具体的な概念、に翻訳することである。
文章というのは、抽象概念→具体例(例示・比喩)→抽象概念(定義化・まとめ)→具体例→抽象概念、の繰り返しである。
抽象概念は、具体例に基づいて理解するのがふつうだが、それだけではぼやけたままのこともよくある。これは、もともとの抽象概念の語彙としての意味を知っているか、にも関わる。最近は、抽象概念を二項対立させた語彙ブックもいろいろ出ており、普段から重要な語彙について、考えておくことも大切であるが、さらに、現在評論文の二項対立の論点というものを、まとめた本などもあり、時間があれば読んでおくといい。

 

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