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開成高校受験の不安 不安こそ闘いの本質

2023.04.08

受験とは、不安と戦うこと‼️
客観的不安と主観的不安
不安要素を消していくのは指導者の役目
主観的不安は、主に、自信のなさから来るもの
実力がないと自覚しているから不安が支配する。
 数学ができない、英語ができない、理科社会ができない、それなら不安は当たり前のこと。

 トップ都立に行きたいなら、中学入学前2か月から春までに、数学なら関数までは終わらせる。もちろん終わらせられるだけの能力があるのが前提である。正負の数で最初から躓く、もたもたするというのは、能力の問題かと思われる。
 英語というのは、「習う」科目ではない。毎日欠かさず「続ける」科目である。どれだけ継続して勉強をしてきたか、そこが問われる科目である。だから中3で英語ができないのは、いや中2でも同じだが、継続して勉強してこなかったのが原因であり、中3から英語塾に行ってなんとかなることはない。「習う」科目ではないから当たり前の話しである。「続ける」科目なのだから、「習って」どうなることはない。
 単語を覚える努力もしないで、英語が「わからない」と英語塾を探す、ばかな話しである。竹の会の開成高校に合格した生徒は、小学生の間、英語なんてやってない。それで開成、筑駒の英語を時間内に9割取る実力をつけたのである。よくやる早期英語も母親の中には夢中な人もいるけど、やるべきことの優先順位が違うのではないか。漢字、平仮名はミミズが這ったような字しか書けない小学生が、英検2級だと自慢しても、日本語もまともに読み取れない子に何が期待できようか。
 やらなければならないのは、国語であろう。母国語であろう。国語は裾野が広い。古典の素養も国語、漢文の素養も国語、日本語の奥の深さを考えると英語やどうでもいい習い事に時間を使うなどあり得ない。
 幕末、明治の頃、教育とは、漢文の素読であり、教科書の音読であった、という。その頃の子どもは、書を嗜み、古典を理解したのである。これを国語の素養という。まずつけるべきは国語の素養であろう。それをほったらかして、何を血迷ったか。
 いい加減な中学生活を送っていて、志望校だけは高い、という中学生が多いのは知っている。そういう中学生は不安なんかないのではないか、不遜としか言いようがない。受かるはずもないのだから、最初から舐めた話しである。
 不安というのは、真面目に勉強してきた者のみが、勉強の深さ、己の至らなさを悟り、未知の試験の幻影を恐れるのである。
 不安と言えば、わたしは、わたしで指導する立場から、常に過ぎる不安と葛藤してきた。子どもの素の力を見切る、そのために今ではレジュメだけがたよりになる。力の底というものを見届ける。これは高校入試だと、都立ならかなり正確に見切ることが可能である。私立難関、例えば、開成、国立難関、例えば、筑駒となると、正直最後まで不安は尽きなかった。駿台模試全国1位を取っても、不安はいつもあった。試験は、何が起きるか、わからない、ということもよく知っている。国立大学の場合、数学で決まる。実力者でも本番でできないということが普通にある。難関高校も数学の怖さはあるが、東大ほどではない。これは高校入試の出題範囲には限界があり、難しくするのも限界があるからである。正直ネタ切れ感は否めない。
 開成高校の試験前日から降り始めた雪には不安が募った。積雪となれば電車が止まる、遅れる、そういう心配までした。せっかくここまで力をつけてきて、のアクシデントがいちばん怖かった。とにかく無事受けてくれさえすれば、なんとかなる、そういう思いが不安と交錯した。 
 今年の都立中だって正直漠然としていた。誰一人模試で結果を出せなかった、というか、100点未満を見たら、心は沈むほかない。ただ今年は慎重に厳選したレジュメを処方したという思い、つまりわたしが戦略的に指導したということが、漠然と何かが起こりそうな予感としてずっとあった。結果は、受検者4名中、桜修館合格、富士は補欠で涙をのんだが、普連土学園に合格。これは科目受験である。つまり算数、国語で受験しての合格。
 受験というのは、本人はもちろん不安の主人公であるが、家族、特に、親の不安は子どもに勝るとも劣らない。親は子を第一に思うが、子は自分の気持ちが強く、親は二番目だろう。
 ただしかし、受験というのは、そういう主観的な思いとは、別次元のところにある。客観的な事実、現実がすべてである。
 誰でも勉強すれば受かるわけではない。
 最低限の知能というのがある。これは学校の優等生、つまり、「よくできる」が、8割以上ある子の中の4割前後いるだろうか。内申が悪くても知能は高いという子も稀にいる。しかし、「よくできる」が、ほとんどなくて、「できる」が並んでいるのは、普通は、受検は無理であろう。本当に頭が良ければ、高校受験でいくべきと思う。もし「できる」ばかりが、真実の評価なら高校受験も厳しいかもしれない。
 知能の判断は、内申から推測するほかに、竹の会ならレジュメの正答率、「この問題」の正解の可否から判断できる。
 模試については、今年は、内申はいいが、模試の結果だけ見れば合格は不可能と判断せざるを得ない。しかし、実際は合格ということで、模試に対する信頼は崩れた。考えてみれば、模試で上位を取った子でも落ちる例はそれなりにいた。ただ名前は載らなかったが、上位に近ければ受かる、という経験則はあった。
 しかし、12月、1月の模試で、むしろ下位層にあった子が受かった例は今回が初めてである。通常は、上位で安定している子が受かる。しかし、これも例外を経験している。
 模試の信頼度は、都立高校ならVもぎが一番高い。開成、筑駒レベルなら駿台模試の信頼度が一番である。
 そして、都立中については、信頼に足る模試は存在しない、ということだ。
 中学受験なら、大手塾の模試で判断できる。都立中受検模試のように、母数が偏っていないと思われる。
 だから、都立中受検に関しては、今年の桜修館合格者のような、戦略が有効なのだろうと思う。
 結局、都立中は、どこまで深く、掘り下げて、言い換えれば、多層問題の層を一枚一枚剥がしていく思考ができるかであり、わたしがリトマス試験紙として提供する「この問題」が全く解けない子が、受かることはない。白紙はもちろん、全バツなら、受かる要素はほとんどない、と言っていい。
 都立中に関しては、竹の会のレジュメが、平成25年合格者から令和5年に至るまで、検証を重ねてきた実績があり、今は、最も信頼できる合否判定基準と言える。
 合格者は、確かに、わたしの「このレジュメ」を合格判定でクリアした子に限られていた。

 簡単に騙される、うわべに騙される、思い込み、勘違い、よく読まない、常識がない、そういう子は受からないのはあたりまえだ。

 受検は基礎学力をつける、いい機会である。将来の高校受験を睨んで、小学生の今、徹底して基礎学力をつけておくこと、これが将来のため、明日のため、の布石となる。

 基礎が固まれば、自ずと伸びていくものである。適性検査問題には、深い思考の機微を培う、いいものがある。そういう良質の問題で思考体験を積むことが、強靱な思考の力を内在させることになる。

 問題には層が必ずある。上辺の層を見てすべてと即断しないことだ。普段の勉強は、常識的な見方は何か、を学ぶことにある。常識的な判断、常識的な推測、常識的な仮定、そういうものを学ぶのが学問である。問題は多層問題として構造化されている。一つの層を剥がすとき、その根拠は常識的な推測にほかならない。

 実はこの常識的な推測というのは、中学になって科目を勉強するときにもっとも必要となる。地理を勉強するとき、各テーマの常識を学ぶのであり、それは定義とか、性質とか、すべて言葉、概念で規定される。「要するに、……ということか」と一言で常識化、概念化して、いくことを理解した、という。

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