画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🔛小2から天才に育てる、算数こそがその力となる  

2024.06.12

🔛小2から天才に育てる、算数こそがその力となる
 小2ならだれでもいいか、それは否です。小2ですと、竹の会の入会試験は、使えなくもないのですが、それよりも指導できる逸材か、が問われるべきと思います。一つのことに集中できるか、これだけで、その能力を判断できます。つまり、知能と集中力は比例している。飽きる、だれるは、たいてい見込みなしです。小2で集中力に優れた子は確かにいるのです。かつて小2で、試し指導で4時間黙々と計算ドリルをやっていた子がいましたが、この子が、その後東北大に現役で合格することになろうとは、その時は予想だにしておりませんでしたが、その集中力は小2では普通はあり得ないものでした。知能を見るには、黙々と集中してやれるか、これは、知能の成熟度といってもいい。
親の過保護、子ども扱いがいつまでも自立出来ない子にしてしまう。
 甘やかす、おねざりされれば見境なく買ってやる、叱らない、躾をしない、要するに、子どものわがままをすべて受け入れる。これで、その子は、幼さいままの心をもって体だけ大人になっていく。
 躾というのは、子どもに核となるもの、それは精神の自立を植え付ける、親の義務である。責任ある主体としての自我を確立させる、諸々の行為こそが親がまずやらなければならない行為である。
 人間というのは、欲、恣の欲を制御できない、無限の欲が際限なく湧き起こる、貪欲な生き物です。だから躾とは、この欲に輪っかをかけることです。それも自ら自制すること、引いては自立心を形成すること、これを促すのが躾です。躾をしない親は、子を欲だけの塊、その塊は自尊心だけが異常に成長した怪物の塊です。子どもがこうなってからではもう遅い。
 自分を律する生き方を教え込むのは、最低限親の務めです。字とは、子にうかんむり、うかんむりは、家屋を意味します。字は、生まれたままの子ではない。家屋という保護つきの子です。そこには、律するという精神がある。だから字を書くというのは、律することを学ぶことです。均整のとれた形、形を整える、これは余程丁寧にバランスを配しながら書かないと書けない。殴り書き、乱暴な字は、もはや字ではない。律する心は、生活の節目節目で躾けていかなければならない。学ぶとは、本来「子」の上につかんむりではなく、難字体があった。子という字にとにかくも制限をかけるのが、学ぶである。学ぶの本質を理解するならば、子を放任する親は子に学ばせることなく、子の未来をなるがままに任せることを容認したわけである。
 小学期、特に、低学年時に無塾というのは、この學の本義に反する。昨今は親ガチャと言い、子の運命は親の経済力で決まる。難関私立中高一貫校を受けられるのは親ガチャで決まる。さらに最高の教育費をかけなければ合格できない。難関私立中高一貫校に入っても大学受験でかかる予備校費用は半端ではない。こうして旧帝大、早慶までに到達するのである。
世の親の勘違いは、小学低学年期に塾ではなく、習い事、稽古事、スポーツにと、子にかんむりを被せることなく、かんむりなしのまま、この欲のままに放置することである。学業は、7歳にして始まる。この機を安易に逸して、小6とか、中学も高学年になって、塾とか、ありえない思考である。こうして、子の未来は、内申によって、教育困難校か、それ以外の単願推薦校かに振り分けられる。
 早くから外れた道を歩む子たちは、小学低学年には、好きなことをして日々を喜怒哀楽のままに過ごし、中学でも、その延長のまま部活に明け暮れて教育困難校へと外れ道の終着駅へと行き着く。學を志さない子たちの行き着く先は、内申を頑張っても、Fランということでは変わらない。生きるということが、職を得ることだとすれば、學を志さない子たちの行き着く専門学校とFランは、失業者予備軍のとりあえずの溜まり場ということになる。さていったい學を軽視してきた親たちの子はどのような職を得ることになるのか。
 習い事、稽古事、スポーツを第一としてきた人たちが、どんな職を得ているのか。その親たちはそれでよかったのか。習い事、スポーツは、社会に出て食っていくのにそれほどに大切なものだったのか、親たちに聞いてみたい。
 さて、小2から自らの意思で、あるいは學への興味天分にして深く、あるいは親の學への誘導に従順に従い、塾に来る子でなければ、物にはならないとして、そういう子が、塾大事に通うことになれば、それはめでたきことで、とにかくも小学低学年期に學を、基礎学力をつけられることになる。
 辿々しいが、黙々とやる姿が、大切である。脇目も振らず勉強する子は見どころがある。つまり、将来成功する子はそういう子の中から出てくる。褒められて夢中になる子は、できない、壁に突き当たると、たちまちやる気を失くすことが往々にしてある。これが幼さの為す技である。しかし、そういう子はまだ可能性を残してはいる。
 計算は小2で、遅くとも小3の夏までには、マスターできるでしょう。マスターとは、中学入試の計算問題が苦もなく解けるという意味です。
 計算は竹の会の指導ならあっという間です。計算を仕込む手順というのは、わたしにしかできないものです。
 計算をマスターしたら、割合の學に入ります。ここからは竹の会独自の思考育成システムです。入門レジュメから始め、さまざまなな思考育成のためのプログラムをやります。これをやってないというか、この過程の欠落した子が、基礎学力の欠如した子です。算数というのは、すべての考え方を基礎づけるほどに大切なものです。小学低学年時から算数を鍛えられた子は東大にも行けます。開成高校、筑駒すべての基礎は算数にあり。この算数を小学期に飛ばした子の未来は実際に指導してみたらわかる。なにもかもが一人で考えられない。

 算数を低学年から学ぶ。學として学ぶ。これがその子の未来を決めます。もし東大をめざすなら算数からやり直しです。算数で学ぶ思考の妙はこれからの学問生活の礎となります。未来が広がります。習い事よりもまず算数でしょ。
 學で身を立てる、まずそこでしょ。何を血迷ったか、習い事、稽古事、スポーツで身を立てるわけでもないのに、學は、それ以下にして、平気な親子ばかりです。

 小学5年生で塾?  中学生で塾? 一体何を考えているのやら。もし竹の会に5年とか6年に来てなんとかかんばって中学、高校とがんばっても、低学年のときに算数に明け暮れた経験がない子は落ちこぼれるかもしれない。算数とはそれほど子どもの知能の形成を決定づけるものです。
 誤判断とは算数の軽視、塾の軽視らあり、習い事、稽古事になぜか熱心な親たちの見立てた子の未来はどんなものだったか、公立中学で1番、2番が取れないのならそれは失敗でしょ。だって算数を武器として使えない子にしたのはほかでもないあなたたち親ではないですか。
 

 

ページトップへ