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都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

お知らせ 付 12月13日

2022.12.13

 

教育とは、カネである‼️
 竹の会が公立中高一貫校に参入したのは、平成19年九段合格をもって最初とする。ただし、その前から東大附属は合格者を出してはいた。しかし、東大附属の入試は、抽選による篩があり、進学実績もよくないこともあり、竹の会は次第に手を引いていった。平成19年の合格以来、竹の会は、公立中高一貫校指導にシフトし、分析と研究を重ねてきた。しかし、平成20年豊島岡学園、都立西、立教新座、桐蔭理数を撃破したのは、高校入試こそ竹の会の専門だということを示し得たであろうか。決して、高校入試を諦めたわけではない。虎視眈々と難関突破を狙っていた。わたしは、高校入試は、逸材しかみない、そう決意していた。総じて、適性検査試験、トップ都立高校入試及び難関私立高校入試は、逸材でなければそもそもの合格などない。脳がまだ未分化なままの、幼過ぎる子に何を期待しようというのか。合格するには、それなりの精神の成熟が前提となる。私がいつも言ってきた「もっと大人になれ‼️」というのは、このことである、
 努力すればなんとかなるのか。わたしの経験は、才能がなければ、努力だけではどうにもならない、ということを教訓として遺していた。努力というのは、才能の有無に関わらない、当然の前提である。才能の微妙なものが、努力を、惜しまなかったとしても、才能溢れる者も努力を惜しまないであろうから、努力は、決定打ではない。
 高校入試にしても、適性検査試験にしても、その本質は、能力試験、才能試験なのである。世の親たちが、塾に通えば、人の何倍も努力すれば、合格できる、と思っているとしたら、それは完全な誤解である。
教育とは、カネのかかる大事業である。教育熱心なのは、高学歴の親、したがって、教育にカネをかけられるゆとりがなければとてもなし得ないことである。小4から塾に通わせることのできる親でなければ、そもそも受検は無理である。子に才能があるならば、教育にカネをかければかけるほど成功する可能性が高いのが、受験の真実である。指導が効果的に作用するのは、それは最大に時間をかけてあげたときである。こんなわかりやすい真実はない。公立中高一貫校を受けようという親は、なんとかカネを使わないで、合格しようと、考えるものである。しかし、こと受験に限れば、それは、実を結ばない、のは確実である。カネを節約したのか、模試で実力が裸になるのが怖かったのか、模試を1、2回受けただけという受験生がいたが、これはダメな例の典型である。
 教育とは、カネである。そして受験とは、カネである。これは、教育でカネを惜しんだら、必ず失敗するという教訓である。難関とされる公認会計士試験では、予備校が必須である。しかも2つ以上利用するのが短期合格には断然有利である。易しくなった司法試験は、法科大学院という合格保証制度を利用すれば、300万円ほどかかる。予備試験経由ならまた予備校にかなりカネを取られる。
 受験は、中途半端にカネをかけるなら、やめたほうがいい。小5になっても、塾に行ったことがない、つまり塾にカネをかけたことがない、という子が、受検に成功するのか。それまで教育にカネをかけてこなかったことから生ずる学力格差は如何ともしようがない。つまり、最初から学力格差が極大化している。小3、小4からカネをかけて塾に通って来た子との格差はもはや埋めがたいところまで達している。余程の天才でない限り、この天文学的格差を縮めるのは難しい。ところが、それまでカネをかけてこなかった習性は、ここで修正されることはないのが、無塾の親の性向である。これを中途半端にカネを使う、という。
 中学にこのタイプの親子の典型例があった。いやそういう例は十指に余るどころか、多数経験しているが、例によって、中2までは、成績優秀、5が先行する成績。もちろん定期テストで平均90点以上を取っているのが前提である。これなら親も「日比谷でも受けたら」と言いたくなるのはわかる。しかし、この親子は、わたしに一切相談することもない。竹の会では、時間の少ないコースを選び、季節講習も、常に時間の少ないコースを選ぶ。つまり一切カネをかけない選択をしてきたのだ。竹の会のレジュメは、中2までは、学校の進度に遅れないなら、トップを取れるレベルではある。しかし、トップ都立を取るためには、前倒し、先取りの勉強をしなければ対応できないのだ。そのためにコース選択は常に最大に取らなければならない。特に、竹の会は、教材費は、一切取らないから、コースを最大に取らなければ、無制限に教材を配布できない仕組みである。最低限のコース選択、つまり、無制限に教材を無償配布したら大赤字になるコース選択、これでは受験はできない、ということである。わたしも赤字覚悟で合格を優先して対応しているのに、低学年仕様の低費用コースばかりを選んで受験を成功させようとしてもそれは無理ということである。日比谷なら日比谷に合格するだけのカネがかかる。受験で失敗する親というのは、ここの哲学で、落ちる選択をしてしまう。カネをかけられないのだ。竹の会でトップ都立に落ちた例はすべてこの例にあたる。

 それからトップ都立、ないし都立中高一貫校に落ちるケースについては、このカネをかけられない家庭のほか、定期的な遠方への実家帰省、旅行、スポーツ、過度な習い事、稽古事などに傾いた時間の配分による失敗がある。というか習い事等重視を口実にカネをかけない選択をしているとも言える。これはもう自己責任の顕著な例であるが、これが主流となるほど公立志望の家庭には多い。この辺は、私立志望の親、家庭とは、根本的に違う。私立難関を目指す家庭は、一切の習い事稽古事スポーツを排除して、生活はまさに受験を軸として回している。根本的に覚悟が違うのだ。またカネのかけ方も半端ない。小3までの間も、教育に気を遣い、早くて小3、普通は小4には、大手有名進学教室に通わせる。少なくて週3、中には週5の授業をこなし、家庭学習も毎日4、5時間、親がつきっきりか、家庭教師を雇い、塾の季節講習、オプション講座もすべて最大限取り、お盆特訓、お正月特訓と、盆正月も返上し、合格の日まで、一日の休みもなく、勉強をするのだ。
 わたしが、公立志望の親は、甘い、中途半端にカネをかける、あるいはかけないという意味がお分かりだろうか。
親の覚悟が違うというのは、受験にカネをかけない親の態度に現れるということです。また受験を軸として生活を規律しないという親の態度に現れます。物を買うというのと、教育を同列に捉えているのです。物を買うのを節約するのは、当然のことです。しかし、教育にかかるカネを節約するのは、それはそのまま子どもの将来の道の選択を狭いものにする選択でもあります。しかも節約すればするほど、必然的に底辺の道を選んでいるということを理解しない。教育にかけるカネを節約する親は、その節約という哲学が、子どもの未来の道を低い、底辺の道を選択しているということがわかっていない。教育=物、の単純な、安易な思考から、物を買うのを我慢するのと同じように、平気で教育の費用を節約する、ケチる。これが何をもたらすか、わかっていない。
 教育格差がもたらすもの、それは住む世界の選別である。才能があればカネさえかければ、歩む人生はガラリと変わる。教育格差は、才能ある子どもに、カネをかけられるか、の問題である。才能がなければ、カネをかけても超えられない域がある。わたしが問題にしているのは、少なくとも指導すれば伸びる余地があるのに、カネを惜しんで放置することのマイナスについてである。もちろん才能溢れる子ならカネをかければかけるほど選択の幅が広がることは自明である。
 長い間、公立中高一貫校のための指導をして来て、総じて、失敗した子たちは、公立志望特有の、カネをかけない哲学か、塾よりもその他の何かにそれ以上に時間をかける人たちであった。その他のなにかとは、サッカーなどスポーツであったり、ピアノ、バレー、バトン、ダンス、日本舞踊と多彩な習い事稽古事であったり、旅行、実家帰省、など勉強に優先するものはなんでもあり、これが、私立難関中学志望の家庭と決定的に違う点である。勉強はいつでもスキップできる、そういう精神構造が根底にあると思います。それは勉強は必ずしも最優先事項ではないという本音があるからなのかと思います。
 私立難関中学志望の親は、明確に、勉強を第一、すべての価値に優先するものとして、迷いがない。
こうして、昨今の都立中高一貫校受検は、迷いのない私立難関中学志望者の有力な併願校となり、カネをできるだけかけない公立志望の親との戦いとなっています。公立志望の親はダメなら公立に行けばいいと楽観しているところがあり、だから私立しかないという親とは根本的に勉強に対するカネのかけ方が異なる。最初から勝負にならない。
 わたしは、早くからこの状況を踏まえて、小2から指導開始することを勧めてきたつもりです。しかし、公立志望の親が重い腰を上げるのは、早くて小5前後、しかも選ぶのは大手の公立中高一貫校型の塾です。そういう子たちが、計算未熟、割合も全くわからない、ということは疑えない事実です。こういう子たちが、早くから訓練を重ねてきた私立難関中学志望の子たちに、どうしたら勝てるのか、勝てるはずがないではないか。
 教育は何より最優先、そのためには、カネをかけなければならない、と達観している私立難関中学志望の親と、教育にカネはかけられない、宝くじ感覚の公立志望の親とのスタンスの差は、合否の差となって、現れている。
 受験は、引いたら(カネを節約)終わりだ。それがわたしが40年かけて得た真理であった。引いた子は落ちる‼️  受かったのは、時間を最大限かけたからである。カネを惜しまなかったからである。直前期には、最大限カネをかけてやるべきである。

 よく直前期に学校を休むか、という選択を尋ねられることがあるが、自己責任で決めることですが、わたしがどうこういう立場にはないということですが、学校を休んでも落ちる人は落ちるし、学校に行っても受かる人は受かるということです。ただ、学校に行くことは、デメリットしかない。まずインフルエンザ、新型コロナの感染を心配しなければならないこと、時間を試験と関係のないことに無駄に費やさなければならないこと、この2点において、直前の1月は学校を休む、その代わり勉強時間は実働10時間をめざす、これならわたしも納得である。
 ただ直前期の勉強については、やり方を誤れば、第一巻の終わりである。指導者がいないのに、勝手に、新問題を漁るのは、決してやってはならない、ことである。
よく家庭でやるのが、志望校の過去問を時間を計ってやることがある。竹の会でも親が主導してやる例が多い。中には、親が解答見てもわからないので、「先生につけてほしい」とメールで頼んでくることもある、正直、迷惑である。私が指示してやらせたわけでもない。そもそも志望校の過去問をやるかは、甚だ疑問に思っている。次も同じ問題はもちろん、似た問題が出るわけではない。本番その時は、現場で考える、しかないのだ。傾向を言うが、そんなものは何の役に立たない。本番での力を、試すのに使う、というのは、わかる。しかし、解けなかった問題を理解して対応する必要はない。本番前に解けないなら、それだけの実力ということだ。実力がないということはわかった。だから過去問を解けるように勉強しておくなどというのは、無意味である。要は、今実力があるか、それだけである。
 実力が足りないのなら、逆立ちしても受かることはない。解けなかった過去問を覚えても意味はない。
 本番でどれだけできるか、それだけである。

 くよくよ悩まないで、潔く身を処することである。

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