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都立中高一貫校/都立高校トップ校 受験専門 渋谷で創立30年

合格を呼びこむ「気」の研究

2022.12.10

 

合格を呼びこむ「気」の研究
 やる「気」を失くす精神の脆さは、義務感から勉強してきた子に顕著かと思われる。義務感からでもとにかく低学年から勉強してくれば、周りの勉強をしない連中よりはできる。高い位置にいることが、日常的に確認できるから、それが自尊心をくすぐり、勉強をする意欲ともなる。しかし、高学年になるに従い、周りも勉強をする子が増えてくる。こうなるといつまでも高い位置にいることは危うくなる。中には、本心から勉強をする者も出てくるからである。義務ではなく勉強そのものに魅せられた子は伸びる。義務感からの勉強は本心は嫌々やってることは否定しきれない。これはどうしても伸び止めとして発現する。それまで高い位置にいて周りを見回していた者が、ある日自分より高い位置にいる者を見上げる位置にいることを悟ったとき、自尊心を保つことができなくなる。ここで「気」が萎える。これはすべて義務感から勉強してきたことにある。義務感というのは、自らの意思は積極には関与していない。だから勉強の根拠が脆弱なのである。踏みつけられて生き抜いてきた雑草の精神はもともとないから、崩れるのも早い。あっという間に、「気」を失う。
 なぜ勉強するのか、勉強する機会、環境を与えてくれることの幸福がわかっていない子どもにそのことをわからせるのは難しい。
 幼きときから親に言われて夢中で勉強してきた子には、勉強は義務であり、それ以外の何ものでもない。勉強できる、そういう機会を与えてもらえる、というのが当たり前で、そのありがたさをわかるのは、実に、後年になって、社会の荒波に踏み入れたとき、人生の苦難を知ったとき、であろうか。子どもに勉強の大切さが語らずともわかるせるのは、やはり親の姿勢ということか。子どもは親の後ろ姿を見て育つ。親が苦しめば子どもは敏感にその意味を感得するであろう。そこに目に見えぬ教育が成り立つ。子どもは親を冷静に観ている。親の矛盾から親の真意を感じとる。親のそういう姿勢が意識しないが、教育となる。
 わたしの父は旧国鉄の鉄道員であった。旧制小学校から旧制中学に入学したものの祖父の横暴から退学させられ、16歳の時に国鉄に就職せざるを得なかった。祖父は放蕩を尽くし家を出て、残された祖母と兄妹が生きていくのにどれだ苦労したことであろうか。父は、最後は地方の連区長駅の駅長で華を飾った。その父が私が小学校の頃は、ずっと職場から帰ってくると、自分の学歴がないことを嘆いていた。自分は実力はあるのに、学歴のないため出世できないということを嘆いた。若い人が、どこでも大学さえ出ていればいきなり課長として赴任してきた時代であった。わたしは夕食の時はいつも母を相手に愚痴をこぼす父の姿を見て育ってきた。少年の心に、「おれは旧帝大に入ってやる」と密かに決意したことを誰か知る。中学、高校と私の旧帝大へ入るという決意は、鞏固になった。高校時代、父に反抗して、落ちこぼれても、わたしの心はますます燃えて衰えることがなかった。高校を卒業して、家を飛び出し、横浜で大型貨物の運転をした。無鉄砲は承知だった。荒くれを相手に背負い投げで投げ飛ばしたこともある。それでも旧帝大の夢は消えることはなかった。幼い頃の苦悩する父の姿を忘れることはなかった。 8月、神田の古本屋街で大学入試の参考書を買い求め、郷里へと帰った。父に頭を下げて、「どうか勉強させてください」とお願いした。19歳のことであった。3畳間で文机を置き、一日勉強した。必ず、旧帝大に入らなければならない、と心に誓った。秋、冬と郷里の生活は簡素なものだった。夜7時頃毎日弟と近くの温泉に行った。湯上がりの帰り道、いつも通る空き地の道、東の空に煌めく星を見上げて、帝大合格を誓い、まだ見ぬ、赤い糸で結ばれたひとにいつか会うことを思い、寒空の中、家路を急いだ。毎晩毎晩このルーチンは変わらない。仲の良かった弟と通った近くの温泉、わたしは受からなければならかった。だって小学生の頃、毎日聞かされた父の悔しさが、わたしの中で絶えることなく渦巻いて唸りとなってわたしの中に燃えていたからだ。
 わたしはひたすら繰り返し、参考書を読み返していた。何回回しただろうか。1回回す毎に、参考書の最後のページに「正」の一画を書き込んだ。読む参考書は「これしかない」「これだけ」だった。赤尾の豆単、原仙作の英標、Z会の数学、古語2000、漢文、日本史用語集、世界史用語集、数研の生物、新釈現代文、古文研究法。
 客観的には、不合格の要素しかなかった。予備校に行ったこともない。独学。市販の参考書のみ。誰に教えられたこともない。たった1回だけ受けてみた模試(全県模試)は、
合格不可能判定。準備期間は5ヶ月だけ。
 しかし、わたしには、成算があった。ただ模試の結果は、わたしの鞏固な意思を揺らがせるだけのインパクトがあったことは否定しない。しかし、それも毎日のルーチンで意識の外に弾き飛ばされた。揺らぎない信念、これをもって「気」と呼びたい。「気」とは、客観的に不利な資料があっても動じない精神力のことであり、タフな精神である。
※ルーチン ルーティンと書かないと笑う人もいるが、朝日新聞に掲載された、学者の論文は、ルーチンとあった。辞書で確認。だから、自信を持ってそう書いている。
 「気」とは、全生活を勉強一色にしたという自負心が、揺らぎのない精神を鞏固にするものであるから、主体性のない、空虚な勉強をしても気は生じないし、時間をかけたからといって生じるものでもない。「気」とは、揺らぐ心には存在しない。自信のない心には、揺らぐ心は存在しない。何か勉強を中断させていれば、心は揺らぐばかりである。みっちりきっちり勉強したという行動は心を鞏固にする。逆に、何かと勉強を中断させてきた人間には、心に気がない。気は、継続した行動に宿る。思い詰めた心に宿る。本番直前によく喋り、ふざける、のは、気が散るという。気は常に外に放たれる。気は内面に宿るから丹田に込められる。
 気を溜めて一気に本番で発するのである。なんでもない日常で気を発散してどうする。本番前は、気を集めるのだ。

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