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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🔛小学期、しかも小5、6年になって、塾、しかも大手塾に行くことの意味するもの❗️

2024.05.25

🔛小学期、しかも小5、6年になって、塾、しかも大手塾に行くことの意味するもの❗️
 これは意味がない。というか何をするにしても手遅れです。
 普通の子が小6になっていきなり大手に行くとして、この小6は何をしたいのでしょうか。
 中学受検?しかし、計算力はどうなのでしょうか。小6から塾に入って計算から教えてくれる大手はないでしょう。もう終わったことになっている。そもそも計算は、習うものではなく、鍛えるものです。それも小2から365日、3、4年かけて訓練していくものです。 やり方がわかったら計算はマスターしたということではない。。
 割合はどうなのでしょうか。小6から割合を教える大手塾なんてあるのか。割合は、思考訓練の手段であり、これだけで、少なくとも2年は必要です。しかも、高学年になってからでは、時既に遅しなのです。そうなると大手では、当たり障りのない国語とか、適性類似の問題なんかをやるのでしょうね。基本をスキップしてやるしかない。小5まで無塾の子は、思考というものが、確かな実践を通して体得された経験がなく、小6で大手というのは、無謀な選択でした。そのことがわかるのは、中学になってです。よく方程式の文章題が解けないという子がいますが、まさに無塾の子がそうなります。小学期に思考訓練をスキップしたツケはそのまま中学で払うことになります。
 無塾のもたらす破滅的未来は単なる予想ではありません。長い間子どもたちを見てきたわたしの経験値です。教育というのは、訓練なんです。だから小学の高学年になってからではできない相談なのです。
 芸事は七歳からと世阿弥は述べておりますが、三歳から見せる、聞かせるということも大切です。鉄は熱いうちに打て❗️の通りです。

 わたしが、小2からの訓練を主張するのは、三つ子の魂百までの原理と同じです。わたしの経験からは小学高学年からではもう鉄は半分冷え固まりつつある。低学年から大手塾に行っていた子の冷え方は変な形に固まっているため、そういう子が高学年にやってくるとかえって指導しにくい。それならば変に変形していないほうがまだましだ。ただ無塾の子の指導は、高学年ではどちみち困難を極める。なにしろ小2、3でできる計算、小4でできる割合もさっぱりわからないだろうから、そこから手取り足取りでやるとすれば時間的に無理である。学校のカリキュラムに遅れたらもう終わりです。高学年から基本を訓練するには、時間がないのです。もうすぐ中学という子に基本からというのは、あまりにも遅い。高学年には基本を仕上げた子がさらに思考に磨きをかける時期なんです。
 わたしは受験をすると否と、低学年時の基本訓練は何を置いても優先しなければならないと確信しています。あなたたちは、小2期からの訓練の効果の凄さを知らないし、知ることもないでしょう。竹の会の小2がたどたどしく整数の足し算、引き算を黙々と続けて、次の月は、かけ算、割り算、次の月は、小数の足し算、かけ算、次の月は、小数のかけ算、次の月は、小数の割り算、次の月は、通分、次の月は、約分(これに分数のかけ算、割り算が忍びこませている)、次の月からは計算テキストからわたしが指定問題を解き始める、この指定は巧みに誘導していく高度な指導技術を要します。気がつくと、分数、小数などの混合四則計算が難なく解けるようになっている。計算の順序、かっこなどさまざまなバリエーションを学び、最後は、いよいよ逆算へと進める。これだけのことを小2で終わらせます。逆算マスターしたら、割合ですね。ただし、指導開始前に、まず計算4題解くことがノルマになります。計算から離れることはありません。竹の会に高学年になってやってくる子のほとんどが計算も満足にできない子たちばかりでした。
 さて、どうでしょうか。小2の終わる頃には、もう難関中学の計算問題を解けるようになっているのですよ。大手から来た小6が簡単な計算問題をミスばかりして正解率が極端に低いのとは雲泥の差です。
 わたしが小学低学年のときに、無塾のままに、公文に通ったり、習い事など無為な時間を過ごし、高学年になっても、まだ習い事もやめられない、そんな子が、受験、受検と小6の時だけ騒ぐのも、わたしにはわけがわかりません。
 いいですか。小2がベスト、小3では危うい。小2とは、そんな絶妙なタイミングです。この機を逸してはなりません。
 紀藤という弁護士が言ってました。いい弁護士を見つけるのは、ほとんど不可能だということを。政治家と同じように、弁護士にも悪いことをする人間がいる。いい弁護士のいいとは、専門の深さ、実務の精通度を言うのではないらしい。いい弁護士でないとは、どうも悪意のある弁護士のことらしい。
 いい医者を探すのもほとんど絶望的かもしれない。この場合のいいとは、腕のいい医者ということであるが、腕が悪くて悪意もあると言うのが一番始末が悪い。
 私たちは、福島の原発事故、新型コロナパンデミックのとき、専門家というのが、いかに信用ならないか知ったではないか。国家百年の計というが、安倍政権、菅政権の、情実人事、忖度社会、利権政治の中で、危機管理の無策を思い知らされたばかりではないか。新型コロナでも、福島でも、為す術をなにも持たなかった政府、役人、学者という役立たずに私たちは自分たちの命を守るのは自分しかないと思いしらされた。
 「いい」塾を探すのも本当に大変と思う。なにしろわたし自身がそのような塾を知らない。
 自分の子が普通よりましなら、それこそいい塾を探してあげなければ。ここで、何を血迷ったか、習い事、稽古事に、子どもをともども夢中になる親が、むしろ多数派なのかもしれない。こういう親は、勉強というものが、時期を選ぶ、タイミングが子の未来の分岐点となることを知らない。いいですか、勉強を当面放置して、習い事に、サッカーでもバスケでもいいが、そういうものに熱中して、それで小学は子どもの勉強は適当にやって、それから中学生になって、当然そういう子は落ちこぼれ層に沈澱すると思いますが、ここでもまだ部活、部活と頭がおかしいのではないかと思うのですが、高校はだれでも、つまりどんなバカでも入れる高校に入って、どうせ勉強なんかわかりはしないから遊び呆けて、高校止めるか、高卒か、中には失業者予備軍収容所と言われる専門学校、これも途中で止める者もそれなりにいる、そして、そのまま社会に放り出される。これって、やはり、小学時代の習い事、稽古事、スポーツに時間を浪費したことの結果ですよね。
 失業予備軍収容所というのは、わたしが読んだ書物の中に、専門学校とFラン大学をそう位置付けていたもので、別にわたしの意見ではありません。
 男女七歳にして席を同じゅうせず⁉️
七歳を子どもとして扱うのは、日本の親である。かつて小4女子の親が世田谷から竹の会まで通わせるのに不安があると言って地元の塾に通うことにした、その時、もっと高学年になったら行きたいなどと世迷い言を言っていましたが、高学年では手遅れなんですよね。小2のタイミング、七歳をもって男女の別を意識した、もはや大人の年齢なんだということなんです。七歳を要過保護とするか、独立した大人として扱うか、その違いなんです。いいですか。18歳に選挙権を認める時代です。大学を出て、独立して、親から離れて、自分の食い扶持は自分で稼いでいけるようになること、そういうことではないですか。それなら日本の学歴社会の根強さもふまえて、行動しなければならない。食っていけないことに低学年から時間を費やす意味がわからない。

 結局算数を制する者が最後は伸びて行く❗️

 

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