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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🔛勉強方法と指導法

2024.07.08

🔛勉強方法と指導法
 インプットか、アウトプットか。あるいは両者の使い分けか。
 具体的に言うと、教科書をひたすら読むとか、ノートに写す、適当にまとめるなどのインプットはこれまで勉強法の正道として多くの人がやってきたことだが、果たしてそうなのか。
山口真由は、ただひたすら読むしかやらなかった、それで筑波大附属高校1番、東大銀時計、在学中に司法試験合格、財務省入省、すぐ辞めて弁護士活動開始、すぐ辞めてハーバード大学ロースクール合格、ニューヨーク州弁護士取得、今は、信州大学の特任教授だ。特任というの、派遣と同じ身分。
 最初から東大大学院に行って教授にでもなればと思うのだが、才能の行き当たりばったりだ。この人は、ただ読んだだけで頭にはいるというのだから、誰も真似をしてはいけない部類の人間である。この人は、自分の方法がさも一般的かのように何冊も方法論の本を出しているが、こんなのに騙されてはいけない。あなたたちには、そういう才能はないからだ。かの民法の大家我妻榮も最初はノートにまとめるとか、後には基本書のページの空白のところにそのページのまとめを書き込んでやったそうである。
 勉強の方法は人それぞれである。ただ受験という、いわば初めから答えのある問題のために驚異的な結果を出してきた山口真由も、自ら何かを創造するという民法の大家にはなり得なかった。受験の天才必ずしも天才的な学者ならずということである。
 受験というのは、既にある知識を、しかも膨大な知識量を、限られた時間で、如何にして、頭に入れるか、という能力を問うものである。だから方法論乱立、諸子百家状況である。難関試験に如何にすんなりと合格したかの方法論を売る諸子百家がまるで雨後の筍のように次から次に名乗りをあげる。
 わたしも職業柄そういう類いの本は須く目を通すようにしてきた。その中で、山口真由の方法はシンプルだった。わたしの心に響いたのは、やはり我妻榮先生の勉強方法だろうか。それは民法案内一巻の巻末に先生の懐古として転載されている。

 成功談というのは、私的な個人の行動とその超主観的解釈であり、さらには、その人個人の持って生まれた才能はすっかり捨象されていつのまにか一般人、普通人の成功談義になっている。その点、我妻先生は、一高時代、帝大時代の学生の、見事に普通の学生が考えそうなことをさらりと書かれている。
 山口真由も我妻榮もいずれも首席であり、いわゆる試験というものをトップでクリアしてきた人たちである。しかし、一方は、信州大の派遣教授(派遣といったのは、期間契約の「特任」教授だからである)であり、一方は日本の民法学を大成させた、東大教授であり、「近代法における債権の優越的地位」(論文)で東大から博士号を授与されている。その著書はあまりにも有名な「民法講義」シリーズを始め、夥しい数に上る。
 世の中には、資格試験、入学試験のような必ず答えのある問題の勉強は得意だが、それ以上の、何かへのパッションとか、何をするかは、わからない、迷い、結局やるべきことが見つけられない、そういう作られた試験の技術的対応はうまいが、合格しても、受かることで、その後がうやむやという人が如何に多いことか。与えられたものがなければ何もできない、自ら何かを、未知の世界を開拓するということができない。与えられたものは既に知識体系として完結しているもの、とにかく新たに何かを作り出し、ということには無能である。未完結で、答えのない問題には無能である。
 さてさてこれはどうしたものか。そう言えば、全国模試10番内をとっても、そういう人たちが、何か成し得たということは終ぞないのではないか。
 そういう人たちは、行政で、事務処理に優れ、いわゆる予め決められたら答えのある仕事には、優秀と褒められるが、彼らは決して世の中に何かを新たに付け足すということはない。あるものを卒なくこなす能力、それが試験1番の能力である。
 ある研究によると、試験勉強というのは、白紙に今瞬間に覚えたことを想起して書き出すのが、長期記憶として、もっとも効果があると報告されいる。
 これをわたしなりに具体的に方法論化してみると、記憶すべきことを「問い」を書き留めるというか、書き出し、その問いから内容を思い出すことをする、そういうことになるのではないか。もっとも効果的なのは、全くの白紙に思い出して書くことであるそうな。
 「どう問うか」、普段の勉強は、内容をどう問に抽象化するか、ということである。

 もう一つ、国家試験の秘策として、もちろん中学生諸君の勉強法としても、あげておかねばと思います。
 知識は集約しろ。これは、1箇所に関連必要事項を書き込みしろ、ということである。
 やってはいけない勉強法
  ①ノートにまとめること
  ②教科書を読むだけの勉強

 ①は、教科書をたとえ要約するにしても、要点を書き出すにしても、あまりにも時間がもったいない。ノートにまとめるとすれば、ある程度丁寧に書くことになる。レオナルド・ザ・ビンチのノートのようなノートを作るわけにはいかない。研究ノートではないのだ。
 ここで、記憶の問題が絡んでくる。ある人は、ノートにまとめる過程で理解を深めていく、という効果は否定できない、という。確かに、わたしはかつてノートにまとめながら理解していったことがある。しかし、試験というのは、準備期間が限られているのだ。もちろん試験そのものも制限時間内での答案を有効とする。試験が終わって正解を思いついても評価されない。試験は、時間勝負なのだ。だからノートはやめよう。
 ②は、山口真由流である。実は、昔の司法試験や司法書士試験の受験生には、こういうのがいて、必ず逸話を遺した。アホらしい。
 ただ読むだけというのは、やはり凡人には無理である。
 覚えるということの本質に関わる問題である。どうしたらもっとも効果的に記憶できるか。
 白紙法の勧め
 知識の集約という方法
 
 勉強の方法については、伝統的に、インプットが先でそれからアウトプットだ、という考え方がある。
 あるいは、インプットかアウトプットか、という議論の立て方をする人もいる。
 結論から言えば、アウトプットに重心を置いた勉強がもっともいい。
 インプットに時間をかけたことのある人は、何か緊張感のない、長閑さを感じたはずである。
 そうなのだ。インプットには、張り詰めた感覚がない。問題を解くときの、あの高揚感がない。
 受験勉強というのは、極力インプットにかける時間を少なくすること、というかアウトプット化することが、こつなのである。核心を突く問いを作る、それを書き込む、次に読むときは、問いに答える形で思い出す、すなわちこれアウトプットの一例である。
 白紙法は、目次だけ見て、思い出すとか、とにかくアウトプットに特化した方法である。
 問題集を解くのは、もちろんアウトプットであり、模試を多数回受けるのもアウトプットである。
 受験の極意は、アウトプットにあり。竹の会の指導は、アウトプットにシフトした指導法である。
 とにかく勉強のコツはいつも思い出すことです。
 アウトプットは、ヒントが少ないほどいい。
 ノーヒントがなぜいいのか
 思い出せない、なぜか、それがわかると、インプットのとき、アウトプットを意識したインプットをせざるを得ないことになる、
 つまり、インプット段階の勉強で、漫然と読むのではなくて、常にアウトプットを意識して「読む」ということである。
 アウトプットを意識したインプット法とはどのようなものか。
 具体的に、読むとき、この知識は、問われるとしたらどう問われるのか、どういう形でアウトプットを求められるだろうか、と考えながら読むことになる。
 その場合、仮に問われるとしたらこういう問いかな、と教科書の空きスペースにメモする。これは書き込みと言われる。書き込みは、一般には、軸となるテキストに知識を集約する技術である。これは、模試で得た知識、問題集、過去問で得た知識など、基本となる、軸となるテキストにないものを空きスペースに書き込むことによって、知識を一箇所に集約して、後から読み返すとき、それだけを読むことによって一気に想起を実現する方法と言える。
 定期テストを通して自分なりの勉強法を見つけていくことである。
 竹の会の中学生は、少なくとも、つまり、トップはとれなくても、トップに準じる地位になければ、レジュメ咀嚼能力、つまり能力が疑われると思ってほしい。中1の最初のテストを基準として、成績を落とすなら、それは勉強量、もしかしたら能力も、足りないと推測できる。だからこの夏が勝負となろう。できるだけ時間数を取らないとおそらく2学期のテストには対応できないだろう。もし勉強量が足りないで成績を落としたというなら、潔く退塾を選択するほかない。
 受験は、指導量、指導時間が十分に確保できないなら、成功は保証できない。
 令和4年都立受検の子が、全員都立を落ちた。その中には、小6の途中入会、入会試験不合格者もいたが、総じてレジュメを消化できないことで共通していた。これは、指導時間が絶対的に足りなかったという事情が大きい。レジュメをこなせなければ指導時間を増やすとか、夏などの季節講習にも最大で出る必要があった。しかし、全員が最低のコースに甘んじた。しかも課題もほとんどやってなかった。それで「先生の言う通りにやったのに落ちた」ということを私にではなく全く関係のない人たちに晒した母親がいたが、いつも最低のコース、つまり指導時間が絶対的に足りない中で、合格することはほとんどあり得ない。受験とは、カネを節約したら受かることはない。それが受験である。公立志望の親はできるだけカネをかけないで受かろう、受かる、竹の会の言う通りにやったら受かる、と信じているが、カネをかけない人に受験は冷酷な結果しかもたらさない。
 わたしはこのような受験を知らない人が、カネをかけないで、竹の会を利用して受かろうとすること、これは出だしから誤解しており、竹の会はカネをかけて指導時間を最大にしなければ受からない、本質はそういう塾です。
 公立中高一貫校受検が、スタートからカネをかけないで受かったのは、平成25年まででした。特に、小石川は、平成26年あたりからカネをかけない受験では合格は難しくなっていました。
 高校受験は、最後のチャンスです。ここで相変わらずカネをかけない受験をやっていたら、必ず失敗します。そういう家庭の子たちは、たいていは、単願推薦(事実上無試験)で、偏差値40〜65の幅はありますが、私立高校へ進みます。
内申が良ければ専修や日大系の単願も取れるかもしれません。しかし、大半は低偏差値のいわゆる底辺高校に落ち着くでしょう。
 とにかく内申は良くても上位の都立は落ちます。いわゆる中堅都立に行くか、さまざまな流行りの特進のある私立に行く子もいます。
 いいですか。わたしが成功というのは、偏差値70前後以上の私立、それからトップ都立です。トップ都立とは、日比谷、国立、西を言いますから、さらに戸山、青山、立川、新宿、小山台、三田、駒場までですね。
 中堅都立とは、例えば、文京、北園、目黒、広尾のようなところです。
 私立進学校は、開成です。渋谷幕張です。やや落ちは、城北、巣鴨まで。
 附属系は、慶應志木、義塾、早実、早稲田高等学院、明大明治まででしょうか。
 さて、あなたたちは、そのどこかに入ることが、成功ということです。
 都立なら内申を取るために、定期テスト、いや私立も早実や明治の推薦は内申プラス学科プラス面接ですから、とにかく、内申は大切です。
 国立をめざすなら、筑駒があります。日本最難関校です。
 さてあなたたちは、この受験を切り抜けるには、とにかく勉強をしなければならない。しかも塾に行くことは必須です。塾に行くカネを惜しむのは、そのまま人生の底辺の選択に繋がる可能性が高い。
 塾もピンからキリまで腐るほどある。最近は、大手にとられて、個人塾は半減したと言われています。
 わたしは、竹の会に他塾からやってきて子たちを通して他塾のことを知るのが普通ですが、これまでろくな塾はなかった。東京の親御さんも大変です。本物の塾を見つけるのは、困難極まりないですから。個人塾だと必ず別のことを考えていながら, 親の言うことに同調してみせます。本心は「だめだ」と確信しても「なんとかなる」と言うのがその辺の個人塾です。忘れてはならないのは彼らは営業をしているということです。それからほとんどの塾は、カリキュラム、テキスト、授業を軸とします。少し変わったことをやっているという塾もわたしから見るとかなり怪しいと思います。営利事業の方法として見るとわかりやすいかもしれません。

 竹の会を退塾すると、新しい塾の悪いところがよくわかるようになります。そういう人がいい塾を探すのは困難のようで、たいていは結局大手塾にまた入り、「振り出しに戻る」ようです。

 
 
 

 

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