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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🟧この1年にかける❗️

2025.02.01

🟧この1年にかける❗️
 わたしは、今年は、取れるだけの時間を指導に使いたいと決意しています。わたしが元気なうちに、動けるうちに、できる最大のことをしておきたいと思っています。もし今年1年で力尽きてもいいように子どもたちには後顧の憂いなきように受験の極意を伝え切りたいと決意しております。わたしの指導をできるだけ多く受けたいと思う者には、そういう選択肢を用意しなければならないと思います。
 塾を始めて今年の9月で満40年になります。昭和60年10月にスタートした竹の会は、早40年の歳月を生き抜いてきました。昭和から平成にかけては、夏に1週間ほど帰省するだけで、毎日必死に指導する日々でした。わたしには、年一度の実家帰省がなによりの癒しでした。まだ父も母も元気で、弟家族、姉家族が集まりみんな元気なことを喜び合いました。母の住む故郷に帰ること、それはわたしの生きる糧でした。わたしは遠く九州に住む母がいたから竹の会をやってこれたのだと思います。子どもたちの合格をここらから喜んでくれた母にわたしは涙を流して、頭を下げていました。
わたしの心情をそのまま歌にした千昌夫の「ふるさとの祭り」は大好きな曲でした。
♯♯♯♯♯
風に流れる白い雲♩
見れば浮かぶさ ふるさとのふるさとの祭り♩
頑固なおやじが自慢の民謡(うた)をこの日ばかりははしゃいで唄う♩
心がふるさとに飛んで飛んでもうすぐ祭りだなあ♩
のぼりはためく杜の空♩
太鼓ひびいてふるさとのふるさとの祭り♩
おさない心であこがれていた
きれいなせんせい どうしてるかな心がふるさとに飛んで飛んでもうすぐ祭りだなあ♩
露店 わた飴風車♩
笑顔あふれるふるさとのふるさとの祭り♩
今年もおふくろ手料理つくりおれの帰りを待ってるだろか♩
心がふるさとに飛んで飛んでもうすぐ祭りだなあ♩
♯♯♯♯♯
 竹の会の40年目には父も母もいない。心の置き所を失ってから、受験に専念することで忘れようとしてきました。今いる子たちを目的の地に無事届けること、それがわたしの、ともすれば傾きそうな、崩れ落ちそうな、心に打たれる楔となっているのだろうと自覚しています。わたしも自分の引き際を考える日々です。
 40年の指導に明け暮れた歳月、合格のために何をするべきか、わたしにはわかっていました。よくこのブログで繰り返しますが、早め早めに、前倒しで、時間はたっぷりかけてやる、後顧の憂いなきよう、指導を尽くすこと、です。
 今のわたしは、学芸の指導は、名人の心境にあることを自分ながら感じております。今のわたしにかかれば、巧みに子どもたちの病弊を総合診断医のように、病変を見抜き、適切な処置を施すことができると自負しております。
 わたしに残された時間はもう限られています。一年一年に全力を尽くしたい。できるだけ多くの指導時間をという人には、そういう選択肢は用意しなければならない。だってそれが合格のための鍵なのですから。自分の体力が持つかはわかりませんけど。
 なにしろ不合格となるのは、指導時間不足、家庭学習時間不足なのだから。
 ちなみに合格者は7回解き直しをみなやっている。
 その前提として
 こなすべきレジュメの種類と量はかなりに達します。落ちた子たちは当然やるべきレジュメさえも全くやれないため、解き直しの対象もないのだ。というかそれまでにやった少ない量のレジュメさえも部活動、習い事などのために放置してきたのだから。
 竹の会では合格者が必ずやる、やらなければ合格はない、というレジュメ群があります。なぜやれなかったのか。指導時間不足、家庭学習において解き直しもやれないほどの部活動の重視、説明を聞く方が多かったレジュメスタンスが、適性レジュメの正解率の悪さ、遅さに如実に反映されていました。受検する、受験するというのは、何かをやりながらやれるほど甘くはないのです。そのことを受検に失敗して悟るしかないのが多くの平凡なものごとを楽観して疑わない親子です。昔から都立「しか」行かない、行けないという家庭は塾代も惜しんでギリギリ中3になってから竹の会に駆け込んできたものです。だから入会しても最低の指導時間、最低の費用しか出さない。そうなると底辺の都立とか、低偏差値の私立に単願、つまり無試験で入る、そういうことで終わっていました。都立中高一貫校のみの家庭はやはりカネはできるだけ出さないで受かりたいというのが共通のスタンスです。これだと比較的能力の高い、内申も「よくできる」が9割前後ある、という子しか受からなかったわけです。しかし、平成28年にはそういう姿勢ではもはや受からない時期に来ていました。小石川は90%が私立受験の子たちの併願先でしょう。私立受験の子たちは早い子で小3、普通は小4から大手進学塾に通います。中学受験を考える親はカネをかけられるだけかけて自分の子を合格させようとします。公立オンリーの親とは世界観が違います。これは高校受験でも同じです。都立日比谷の合格者の上位層は、慶應女子、慶応、早稲田系、開成などを受験した子たちばかりです。その中には不合格者ばかりではなく、合格者もたくさんいます。そういう子たちが最初から上位層にいるのが日比谷です。大手進学塾で私立難関高校をめざして切磋琢磨してきた子たちばかりです。そういう中にできるだけカネを使わないでがんばって合格した子たちが合流しても落ちこぼれるだけでしょ。日比谷に入るには早慶合格レベルの力をつけるのが前提ということです。

 算数がわからないと絶望する子というのは、算数を絶対化し、能力の問題として悩むわけです。しかし、頭のいい子はそうは考えません。算数を宝箱と思っています。宝箱の中には知恵という宝物が入っています。宝箱をなんとか工夫して開けること、そして宝物をゲットすること、をゲームのように楽しんでいます。だから算数が楽しくてしかたない。庶民というか平凡な親や子は実はこれと同じ発想をしている。つまり、受験に対して、カネをかけないようにかけないようにする。家計の範囲内でというのはしかたありません。ところが、受験というものが投資によって効果を得るものと考える私立受験の家庭は受験を投資の対象と考えます。だからコストをかけて効果をとるという発想をします。私立受験は裕福な家庭しかしません。コストがかかるから。東大合格の家庭の8割が年収950万以上だという報告がありますが、当然そうなるでしょう。受験の本質を理解していない人が節約型で失敗して塾を批判する。家計制約型の親です。大手進学塾で失敗した親たちがその大手塾を非難した話は聞いたことがありません。コスト型家庭の親はコストをかけなかったことを失敗の原因と考えるでしょうね。

 竹の会に出会って幸運だったと思う人たちがいるだけでわたしは満足です。それがわたしの生きがいだったのだから。竹の会がわたしの生きる道だったのだから。

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