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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

🟧朗報は忘れたときに舞い込む❗️ 

2024.11.21

🟧朗報は忘れたときに舞い込む❗️ 
 最大の成功法、それは「忘れる」、「すっかり忘れる」ことである。
 期待は、裏切られるから期待なのだ。
 全力を尽くしたら、一旦忘れよう。あれこれ考えない。すっかり忘れたら、突然朗報が飛び込む、いつもそうだった、
 次第に、受験を分析するようになって、事前に合否予測をするようになった。そうなるともう忘れることなどできない。発表の日まで寝つかれない夜を過ごし、発表前日はほとんど眠れないままに、朝を迎える。運命の日は、いつもどこまでもいや不気味に静かだった。予測どおり受かることのほうが多かったが、期待が見事に外れた年は忘れられない。渋谷教室では、令和4年、平成28年、26年である。令和4年は、指導時間不足であることは明確だった。26年に限って言えば、わたしのミスであった。指導レジュメの採否に迷ったことである。28年は、小石川を4人が受けた。いずれも合格可能な子たちであったが、受かったのは1名のみ,しかも補欠4番。他の1人は、適性II・Ⅲとも合格者より高かったのに、Iの作文で時間を勘違いして、書ききれなかった。総じて指導時間がこれまでのような設定では足りなかったのだ。この年は、これまで合格と踏んだ子たちが合格できなかった。この年ほど、私立難関受験者を脅威に感じたことはなかった。
 わたしは、もうレジュメの採否で迷わない。少ないレジュメでもじっくり考えた子の方が受かっている。さらに指導時間が多いほど受かる蓋然性が高くなるのは、昔と変わらない。昔は、時間をかけたから合格できたというのが紛れもない真実だった。規定の回数しか出ない子は底辺都立か、低偏差値私立に 落ち着くのが相場だった。
 激動の40年でした。昭和60年10月から令和6年10月で40年目に突入しました。小さな個人塾が、よくこの塾激戦区の東京の渋谷区で生き残ってきたと思います。竹の会は、生まれてから受験のたびに成長してきたと思います。塾としての道を探し、いつも苦悩に苛まれ、身を粉にしてもがいてきたと思います。40年目に突入して、心は、軽くなりました。いつ辞めてもいい、そんな気持ちになったからかもしれません。指導の道を極めたい、という私の想いは、尽きることなく、次にまた何か新しいことを探し、わたしはこのままではいられない、さらなる上を目指して、竹の会のために、生きてまいりました。
 もういいんじゃないの、たけちゃん、よく頑張ったなぁ、お疲れ様、母がそう言っている、母の声が聞こえる・・・

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