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🟧牧歌的家庭の牧歌的受検

2024.12.10

🟧牧歌的家庭の牧歌的受検
 受験を知らない、無知というのが、正確なのだろう。私立中学受験というものを、傍観してきた家庭は、まず私立には出せないという絶対前提がある。だから私立受験家庭には批判的である。あんなに勉強びかりさせて子どもがおかしくなる、という意見には、うちはそんなお金は出せないという嫉妬がある。だからといって、習い事、稽古事には妙にこだわって通わせる。せめてこれくらいはである。ここでいったん始めたら中途で止めるのは良くないことだという規範を持ち出す。さてさてそれなら勉強という訓練は何よりも優先させることだという規範は一切顧みられないのは不思議なことである。古来親は子に学問を第一として行ってきたのではないか。
 子はいずれ社会に出る。言うまでもなく、人生は、生存競争である。だから教育、つまり最終的には、学歴を得て、社会という戦場に放り出される。習い事、稽古事、スポーツにうつつを抜かして、社会に出れは、普通は、低賃金の職があればいい方である。つまり、それでその人の人生は、決まる。
 昨今は、闇バイトなど食い詰めた若者の犯罪が増え、困窮する若年層が社会で喘ぐ図が鮮明である。もちろんろくな政治をしてこなかった自民党というどうにもならない政党がそういう社会にしたのである。しかし、自民党を野放しにしたのは他ならないあなたたちです。
 私たちは、現実問題として、学歴が物言う社会の中で厳しい生存競争を生き抜かなければならない。家族を守るため、生き抜かなければならない。
 わたしたちには、その手段として、学問しかないのだ。勉強することが、生存するためには、何を置いても必要なのだ。
 勉強は、習い事ではない。生きていくための手段だ。ある親は「青春時代を勉強だけなんて」と言って批判した。その子どもは、柔道で日東駒専に推薦進学したが、体育会系は就職に有利というのは、確かにあるし、その能力(努力も能力)は勉強には向いていなのも確かだから、会社を選ばなければどこかに就職できるかもしれない。国士舘や拓大は機動隊の供給校だからその道もある。青春を謳歌するというのはそういうことだ。
 わたしから言わせれば、青春時代こそ、読書に没頭し、勉強道を極める、最高の時期なのだと思うのだけども。青春時代は勉強だけでなくいろいろなことを楽しんでほしい、というのは、勉強は適当にして、遊べということだが、それは親のエゴだろう。遊ぶのはいい。しかし、生存競争を生き抜いていく方法を学ばなかったつけはどう払うのか。親はそもそも子どもが将来社会に出て一人で食っていくことのできるような手立てをあれこれと考えて子育てをするはずである。
 体育会系の「体」とは、無縁の人もいる。というかほとんどの凡人は勉強で未来を掴むしかないのだ。青春を謳歌するというのは、勉強しない選択をしても生活に困らないか、何も考えていない人の言うことだ。
🟣満遍なくか、一点を深めるか
 知識を分散させると、記憶が曖昧になる。人間の脳というのは、ある一点にしか集中させることはできない。人間の脳というのは、「これだけ」と範囲を限ると途端に「やる気」を出すようにできている。どうなるかわからないものに脳は本気にならないのだ。満遍なくというのは、忘れる可能性を限りなく秘めている。まず一点を深めること、このとき、不安とか心配とか恐怖があると、理解があやふやになり、従って記憶も消え易くなる。つまり、理解があやふやなものは脳だって覚えようがないということである。そうなると、記憶するためには、まず、理解すること、腑に落ちる理解をすることが、絶対前提となる。満遍なくは、曖昧度が高まるから、記憶も曖昧になる、そう考えていい。
 こうして、一点に集中するというのは、一つ一つを鮮明に理解して、その上で記憶して植え付けるということを可能にする。
 記憶にとって、曖昧さは、重大な阻害要因である。勉強の不確実さとは、曖昧なままに先へ進めることから生じる。確実な理解は確実な記憶を可能にする。
 この辺はなかなか難しい問題がある。高校生と大学生ではまた違うと思うが、資格試験において、基本書というものを読むとき、よく理解できないところが、たびたび出てくる。この時、できれば誰かに教わるのが実は一番いいのだが、なかなかそういう機会はない。だから、そのままにして読み進めて、理解が深まったところでまた件の箇所を読んでみる、そういうことをするのが、普通である。理解できないから、記憶に残らない。私の経験では、どの段階で理解の折り合いをつけるか、ということではないか。もし完全な整合性を求めると永遠に終わらない可能性がある。だから次善の策として、ほどほどで理解の段階を確定して、先へ進めるのが、国家試験合格ということからは、ベストな対応と思う。ここでこだわってさらに深みにはまらないことである。さらに専門書を読み漁るとか、あれこれと参考書を買い漁るとか、これはやってはいけないのだ。折り合いをつけることだ。
 こうして、記憶とは、一点を確実に理解して、定着させるほかない。このとき反復がもちろん定着にはもっとも優れた方法である。
 








🟧ゴッホの抽象画を観ると無心になる⁉️
 人間の思考は、具体的なものに反応する。それは具体的なものには「意味がある」からである。人間が須く物語好きというのは、人間のこうした本性からくるものではないか。こうして、思考は、意味あるものに対してその意味を問うことから始まる。抽象的なものには「意味」が読み取れないから思考停止するのだ。してみると、抽象概念というのは、意味も抽象的なゆえになかなか物語として成立しないことからとっつきにくいということがあるのかもしれない。
 子どもの脳というのは、具体的な世界にある。必ず物との対応で理解する。だから物との対応のない抽象概念は子どもにとって意味のない、価値のないものである。子どもが、大人の世界に脱皮するには、抽象世界に身をおかなければならない。抽象的なものを理解するには、最初は、抽象的なものが象徴する、具体的なものに置き換えて理解するなどのことをする。象徴のはたらきかた、立ち位置などから類推して抽象的な言葉を理解するというようなことをする。具体的な世界からの脱皮は容易なことではない。
 算数から数学への移行は、あたかも具体的世界から抽象的世界への移行のようである。算数では、数学のような記号言語を使わない。算数言語というようなものはあるのだろうか。記号がないから、飽くまで具体的な世界である。
 算数を読み解く考え方というものはある。割合の考え方、単位あたり量の考え方、比の利用、そして極め付けは、面積図である。わたしは、これほど素晴らしい道具はないのではないか、と感心する。ダイヤグラムを使うこともある。しかし、面積図ほど巧みな解法を知らない。少ない情報を巧みに面積図に構成しなおす、これほど面白いものはない。面積図を使って解ける問題は、実はかなりあると見ています。これまでかなり無理な解き方をしたものも実は面積図を利用すれば簡単に解けたのではないか、それで最近は、情報の極端に少ない問題を見たら、まず面積図を構成できないか、試すようになりました。これまで色々な解き方をしてきた問題を改めて面積図を利用すべきではなかったか、と思うこと多々あり、最近は、まず面積図は使えないか、調べます。

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