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🟧🟪完全網羅性は不可能

2024.11.25

🟧🟪完全網羅性は不可能
 大阪紡績 令和5年の都立社会にこれが出た。といっても名称ではなく地図上の位置(選択肢の一つ、年代順を問う問題の変化形)。さて、これは教科書の本文にはなく、写真の説明にある。高校受験用の大手塾、市販の教材には、一切触れていない。もっともこれを知らなくても他の肢との対比から解けなくもない。社会というのは、理科と違って、必ずそういう問題が出されるので、満点を取るのは無理だ。だから大阪紡績が載ってなくてもその参考書がダメなわけではもちろんない。ただ、教科書には載っていたこと、大阪紡績を知らなくても何かの、手がかり的知識は載っていなければ使えないことは間違いない。
 こういう事例は、さまざまな試験ではよくあることである。耳慣れない、聞いたことのない言葉が出て、それが問題のキィーになっているとしたら、知らないことは、致命的である。
 その致命的な状況をどう切り抜けるか。ほとんどの受験生が知らないとしたら。ただ、結論はわかる。その未知の言葉の解釈によってどちらかに分かれる。前提となる仮定もわかる。ただ、未知の言葉が使われているので結論がどちらはわからない。その言葉の定義で、結論が決まる。こういうとき、どちらかの結論を選択するしかない。このとき、現状維持か、現状の逆転か、が分かれ目になる。これまでの経験は、現状の逆転だった。つまり、ドラマになる方だった。ドラマが生まれる方だった。考えてみれば、問題は、難しい試験ほど、ドラマを求めている、と言えるのではないか。推理もときには賭けであるが、ドラマになる展開を選ぶことは、当然なのかもしれない。
 してみると、ここで読解の方法が、一つ見えてくるのではないか。国語の文章、論説文は当然として、小説も、ドラマになる主張をしている。ドラマとは、何かのトラヴルを巡るストーリー、トラヴルを核とする物語である。
 論説文は、何かのトラヴルに関する議論である。なぜそのようなトラヴルが生起したのか、ここで事実の認識の一致が見られない場合、まずここで議論が分かれる。次に、トラヴルに関する価値認識の相違から議論が分かれる。そこでそれぞれがその根拠を挙げる。反論はそれぞれの根拠に対してなされるであろう。わたしたちは、文章を読むときは、まず事実を正確に、素直に、つまり、偏りなく読み取らなければならない。そのとき、私たちは、ここでのトラヴルは何かをつかみ、このトラヴルについて、文章が展開するであろうことを、予測しなければならない。こうして読解の本質は予断、予測をもち、その予測が正しいのかを確かめるために文章を追うということになる。常にトラヴルに対する考えがどのように変化していくのかを追わなければならない。
 読解については、トラヴルが何か、そのトラヴルを巡って話しがどう展開さているのか、とにかくトラヴルを軸に追って行くことだ。
 「新釈現代文」の著者高田瑞穂は、現代文読解を「ある何かの追跡」とした。「ある何か」を追跡していくこととした。わたしの受験時代の愛読書だが、この「ある何かの追跡」によって必ずしも出題者の問いに答えられないのだ。それは、出題者が同じように「ある何かの追跡」をしているとは限らないからである。というか「ある何か」が違うかもしれないのだ。
 現代文は、出題者目線で追わなければならない。
 自分の認識と出題者の認識が違えば、問いは外す。本文の著者と出題者の往々にして理解は一致しない。受験国語は出題者目線での解答を求めるものだ。
🟣完全性を基準にすると、どんなに詳しく網羅されたテキストも、たった一つの知識がないために、途端にゴミとなる。
 それならば、最初から不完全を前提として、足りないところは、如何に既存の知識から推測するか、という勉強をしていた方がいい。載っていない知識を推理する、そういう読み方を普段からしておくのだ。
 100点取らなければならないのではなく、結果として、100点取れた、という取り方がいい。なければならないは、とかく肩が凝っていけない。なければならないは、思考に負荷をかける。
 力の一番いい出し方は、落ちてもともとという心境だろう。試験というのは、ある何かの発見で一気にかたがつくものである。この何かの発見には、「なければならない」という心の持ち様は完全にマイナスである。落ちてもともと、これは心を軽くさせる、そうなのだ、発見しやすいのは、心が軽いときなのだ。
 さて、こうして試験で実力を発揮するには、心を軽くすることだとわかる。俗に上がるというのは、ガチガチの緊張した心の状態でのことで、思考はできる状態にはない。
 心を軽くするには、自分の心をコントロールすることである。どうしても受かりたい、ではなく、落ちてもともとぐらいの立ち位置がちょうどい。言い換えれば、受かってもともとではない。
 だから工夫する気持ちがムクムクと湧き起こる。落ちてもともとだから、なんとかしようと工夫するのだ。受かって当然なら工夫の場面はない。
 根拠のない自信を自惚れという。自惚れは、工夫とは無縁であり、できて当然であり、できなければ問題がおかしいと言いかねない。自惚れは努力しない。現状のままである。したがって自惚れは進歩しない。自信と自惚れは紙一重。自信は得てして思わぬ失敗の前兆である。自信は往々にして油断を招く。思わぬ落とし穴があるのが、試験の常である。微かな自信がいい。

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