2024.11.04
🟧なぜ成績が上がらないのか❗️(続編)
都立中高一貫受検生は塾というものを普通に通えば受かるところだと思っているが、大手塾は、合格者の何倍もの受検生は落ちているわけです。つまり、落ちるのが普通なんです。だからほとんどの受検生は区立中に行くことになる。その時、伸びるかどうかは、基礎学力がものをいう。それはともかく、竹の会なら受からなければならない、落ちたら非難される、という前提はわたしにはさっぱりわかりません。「言う通りにやったのに(実際は指示はほぼ無視されましたが)落ちた」と非難してきた親がいましたが、「言う通りに」、大手なら「パンフ通りにやったのに落ちた」と言って、非難するものなのでしょうか。さすがそこまでバカではないでしょ。竹の会だから文句を言ってきたのでしょ。そこには、毎月の月謝と季節講習代を払ったという思いが強くあるのかと思いますが、季節講習は、最低のコースで済ましているわけですから、自分で足を引っ張っているわけです。大手には、バカ高いオプション講座、土曜特別講座、日曜特訓など、規定の講座以外にあるわけで、それらをすべて取れば、かなりの額に達するわけで、それで受かる保証などもちろんないわけです。できる限り他人と差をつけたい、そのために申し込むわけです。大手は、このオプション講座を取れば必ず受かりなどと一言も言っているわけではない。難関だから、差別化のために、より力をつけるために、とそう言っているだけです。ここでこのオプションを取れば合格が保証されるなどと思うアホはいないわけです。ところが、竹の会だと最低の節約コースを申し込んだに過ぎないのに、落ちたら、非難と責任云々を当然のように口にする親がいたわけです。
わたしが、外向けのブログをやめたのも世間の親の民度の低さに嫌気がさしたことが一つの要因です。特に,私立中受験は経済的理由でやれないが,公立一貫校はカネがかからないからやる,という親です。特に,父親主導の家庭では父親のレベルが低すぎます。いやこれは竹の会には関係ない親の話です。塾代はできるだけ安く済まして受かろうとしているのが透けて見えるのです。私立受験の親とは根本的に層が異なる親です。わたしはそういう親とは正直関わり合いたくない。受験というのはカネをかけてなんぼの話です。教育というのは子供の未来に対する投資です。投資しない,あるいはできない親,家庭とは竹の会のポリシーがあまりにもかけ離れています。
カネをかけて最善を尽くす,これが受験の本当の話です。
🟧点と線
点と線の違いは何か。
いやここでは、数学的ない性質の違いを言っているのではない。勉強の方法、理解のあり方、意味とは何か、に関する。
点はそれ限り、点である。その意味は、結びつきがない、という意味である。点在する、という言葉の通り、点は孤立したイメージである。
線は、直線もあれば曲線もある。どちらでもいい。要は、ある点とある点を結びつけるはたらきは同じだからである。
線にはさまざま可能性が秘められている。算数では、線分図というのが、有力な思考の道具となる。
数学では、特に、ベクトルに象徴的である。ベクトルは、矢印(→)で示される。矢印の向きで方向を表し、矢印の長さで大きさを定義される。
そうなのだ。点と点を結ぶ線は、点と点に関係があることを示す。点と点を矢印で結べば、起点と結点の関係が示される。それは、因果関係のこともあるし、時系列の意味かもしれない。
矢印は、論理的な関係を示すこともある。起点は結点の前提であり、結点は起点の論理的帰結である。起点と結点は、「したがって」の関係であり、順接の関係である。
試験で、結点が問われれば、起点が、答えとなる。だから、「前提を問う」ことは、有力な思考法なのである。
おわかりであろうか。
これはなかなか示唆に富む分析なのではなかろうか。
「わかる」とは、「分かる」と書く。「分かる」とは、「分ける」ことである。つまり、わかる、理解するとは、分けることができることである。識別能力とか、区別能力というものが問われるのは、わかるとは、分けるということだということを示唆している。
こうして勉強というものは、分けることと同値となる。分けるとは、分類するということでもある。いつか民法の大家故我妻榮先生が、東京帝大時代の勉強方法についてその著書「民法案内第一巻」の巻末付録に掲載されていたのを読んだことがあった。先生は最初サブノートを取っていたが、これは時間がかかるということで、教科書の空いたところに、そのページの内容を分類したものを書き込んだとある。
分ける、分類する、というのは、勉強のなにか極意を示唆しているように思えて仕方ない。
例えば、あなたたちは、理科の勉強をするとき、様々な共通点から分類するといい。分類するには、分類の基準がある。それが共通事項でくくるということではないか。
分類するとは、共通事項で括るということである。それは、抽象化するということである。分類すると、抽象化するとは、同義である。
勉強というのは、抽象化するということではないか。