2022.04.18
◎本日の会員ページのテーマ「「いらない」という方法」
試験勉強の方法論を展開した書き下ろし
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◎もはや日比谷高校は竹の会の目標ではなかった
実は、筑駒、開成は、既に彼の指導を始めたときから、少なくともわたしの心の中には青写真があった。だからそれを念頭に指導してきた。筑駒、開成というと、だれもが迷わず大手に直行するけれど、内心わたしには笑止なことであった。もちろん頭から竹の会を信用しない、のは当然のことであるから、特に、言うこともないが、ただ私には笑止であった。
筑駒、開成というと早稲アカ、サピ、それにZ会かな、しかないというのが、世間の認識であろうから、特に、言うこともない。ただわたしは、わたしに素直な逸材を指導する機会があれば、大手の天才など目ではなかった。牛蒡抜きして1番を取る、それはわかっていた。彼は、駿台模試で全回日比谷高校志望者千数百人中の1番であった。慶應志木志望者中1番、早稲田高等学院志望者中1番、開成志望者中2番、筑駒志望者中3番であった。わたしが仕上げた、手をかけた受験生であった。
ここでわたしも学んだことがある。筑駒、開成合格のための手順を手探りで、といっても長い間に培われた、わたし独特の指導勘、受験勘で完成させたこと、それから受験というのは、「手をかけなければ」結果は出せないということであった。この子を合格させなければという私の思いが、わたしの繊細かつ的確な指導を生んだといえる。
ここにきて、既に日比谷はただの滑り止めになっていた。V模擬独自模試4回すべてで、彼の偏差値グラフは、天井に達していた。通常最高偏差値75でも天井につくことはない。彼は80を越してグラフはでは表しきれなかった。5科目すべてが赤の棒グラフではなく、ただの突き抜ける5本の帯だった。こんな偏差値グラフは見たこともなかった、彼はすでに日比谷への関心を失っていた。わたしは直前までそれこそ命を賭けて手を尽くしたのはもちろんである。