画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

「わかった」と「わかったつもり」

2022.10.15

 

 

「わかった」と「わかったつもり」
 本を読んでいて、意味がわからない、それで何度も読み返して、ようやく「わかった」と思う。その時の「わかった」は、それから時間が経って、読み返したとき、「あっ」と思う、「そういう意味だったのか」と繋がる、この時の「わかった」とは、違う。つまり、「わかった」と言っても、「わかった」には、段階がある、ということだ。あの時には、「わかった」と思っていた、しかし、その「わかった」は、わかったつもりになっていただけだったのだということがわかる。
 子どもたちが、「わかった」というのも、額面通りにはもちろん受け入れられない。
 「わかった」というとき、ただに国語的意味がわかったというのではなく、実は、この文が何を云っているのか、わかったということが、一段上のわかったである。それは、文が意味的に繋がったということであるが、その意味は、その文の背景が読み取れたということである。専門的には、スキーマという概念で説明される。例えば、文章を読んでいて、その文がどうも宮大工の使う釘の話しだなということがわかれば、もし宮大工について少し知識があれば、たちまち文章の意味が繋がる、ということがわかる。
 このとき、「宮大工に関する知識」がスキーマとしてはたらいている。
 一般的にこのように、あることがらに関する、私たちの中に既に存在しているひとかたまりの知識を、認知心理学の言葉でスキーマと呼んでいる。
 私たちは、何の話か示されると、どのスキーマをつかえばよいか判断して、それを使って文章を、処理していけるのだ。だから、何の話かわからないのは、どのスキーマを、使えばいいのかわからないためだ。
 なんの話か、わからないと文章がわからない、と言いました。この何の話が実は文脈なのだ。辞書には、文中の中での文と文との続きぐあい比喩的に、筋道、背景などの意にも使う、とある。文脈は、比喩的には、文や文章の領域を超えて使われているわけだ。続きぐあいというからには、ものとものとの続きぐあいですから、ものが続くための背景、状況は当然必要です。続くことが可能なのは、前のものと後ろのものとが、同じ背景、状況を共有しているからです。なら端的に、脈とは、物事、情報が埋め込まれている背景、状況と言ったほうがいい。つまり、その背景、状況によって続きぐあいが生じるのだと考える。
 文章が訳がわからないのは、文脈がわからないから、したがってスキーマの発動のしようがなかったからだ。
 こうして文章を読むとき、文脈がわかると、私たちは、無意識に、自動的に、スキーマを発動して、文章の処理にあたるから、部分間に関連がつき、わかるようになる。
 わかったとは、 
 各部分からは、文脈と矛盾なく関連がつくこと、文脈を、介して他の部分とも矛盾なく関連がつく意味が引き出される、わかっていないとは、そうなっていないときである。
 かつて平成10年に早稲田実業高校に合格した鈴木君が、中3の頃の話しですが、慶應の英語の過去問をやっていたときの話しです。年度によって、まあかなりの出来不出来があるわけです。それで、「鈴木君、今日は良かったね。調子よかったのかな」と声をかけると、彼は笑いながら「今日は、筋がわかりましたので」と答えたのが印象に残っています。つまり、英文を読んでいて、何についてかいているのか、わかる、例えば、主人公の高校生が、誤って父親の車を壊してしまった。それでアルバイトをして弁償することになった。といったような話しなのかな、とわかれば訳がとりやすいということです。あるいは、「これは日本のお寺についての話しだな」とか、わかると訳とか、問いの答えとかに凡その見当がつくという話しです。こういうもともと自分の持ち合わせた知識の塊をスキーマと呼んでいるわけです。私たちは、文章を読み取るとき、このようなスキーマを頼りにして、いわゆる文脈を追っている、わけです。
 さきほども「文脈」という言葉が出ましたが、文脈というのは、自らがこれだ、このことだと想定したスキーマに従って、文章を読むことです。脈とは、物事、情報が埋め込まれている背景、状況と述べましたが、読解とは、あなたたちがもともと有していた背景、状況についての体験です。適性問題文を読んでもなかなかしっくりとわかったとは思えないのは、あなたたちに当該文章の「〇〇について」のスキーマがないからです。理科のテキストを読むのは、あなたたちがスキーマを手に入れて、文章の背景・状況を想像できるためです。例えば、適性問題で電気の性質が問われているとき、もしあなたの中に電気についてのスキーマがあればその適性の文章はすんなりとわかるはずです。わかりますか。あなたたちに理科のテキストを渡したのはあなたたに「何について」の話かわかるようにスキーマを手に入れてほしいからです。決して問題を解くことが目的ではありません。同じように、国語の読解がないという人は、文章で扱われていることがらについてのスキーマがないので、その文章の背景や状況が見えないからです。説明文ならスキーマもとらえやすいのですが、論説文となると例えばあなたたちに抽象的な思想のスキーマがなければ、文の背景は見えないでしょう。物語文ならまだましかもしれません。あなたたちはスキーマを手に入れるために社会の様々な抽象的な思想についてのスキーマを自分のことばで咀嚼して頭の中に知識の塊として取り入れていかなければなりません。もちろん国語本来の語彙を増やすことはその助けとなります。

 

ページトップへ