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「抽象「の」力」の研究

2019.02.04

 おはようございます。小6たちが去った、竹の会は実に閑散としたものです。昨日は、本番、お疲れさまでした。

 発表の日まで、みなさん落ちつかないと思いますが、心静かに、その日を待ちましょう。

 竹の会の教室は、ひっそりとしていますが、この時期に、インフルエンザに罹る子が毎回出ていまして、小6のみなさんが、無事だったのが、奇跡のように思えます。

●「抽象「の」力」の研究
 このタイトルは、造形芸術の本のタイトルである。
 著者によると、造形芸術は必ずしも視覚に絞られるわけではない。美術作品が見えない、というのは常識に反するかもしれない。だが、ここでの作品とは、「知覚をとびこえて直接、精神に働きかける」能力のことを指す。ということなのだそうです。実は、ちょっと、何を言っているのかわかりません。

 どうもわたしが、理解している抽象とは、違う。
 抽象とは、事象から、共通なものを抽出することである。数学の因数分解と似ている。因数分解では、共通因数でくくる。この共通因数が、抽象的なものということになる。
例えば、ab+bcは、b(a+c)であるが、共通因数bが、それぞれの共通の属性bということになる。このabとbcは、bという抽象概念で、上位概念で括られることになる。
 抽象化の過程というのは、生物の分類表が、そうである。
 それから論証の方法で、帰納的証明というのが、これに当たる。
 演繹的証明は、抽象概念からの、規定で、必ずしも実体とそぐわない、概念の独り歩きの弊がある。
 私たちは、物に名前をつけるが、いつからか、名前が、独り歩きして、物を規定してしまう。逆でしょ。名前とは、そもそもある実体、物につけられたもの。
 私たちは、名前をつけて安心してしまうところがある。名前があると、思考が始まる、というふうに思いこんでいる。原因のわからない病気に罹ると患者は深淵の不安の中に陥る。だから最近の流行りは、「〇〇症候群」という病名だ。症状を名前にしたもの。どうも名前というのは、思考のスイッチになっているような気がする。 
 思考のスイッチと言えば、普通は、問題である。あなたを悩ます問題である。問題提起とか、問いかけるとか、が、スイッチとなる。
 しかし、名前が、思考のきっかけになることはある。特に、知らない名前、馴染みのない名前、しかし、気になる名前は、思考の端緒となる。専門用語は、思考のスイッチにはたいていはならない。むしろ思考が背を向ける。これは、もともとの原理、原則を知らないからだと思う。
 名前というのは、事象を、物を象徴する言葉であることが多い。象徴というのは、抽象的なものを具体的なものに置き換えて理解することである。平和という抽象的概念を鳩という具体的なものに置き換えるのが、これに当たる。
 人の名前は、親の願いを体現したものが多い。
 私たちは、物に名前をつけるけど、物との対応がない概念、すなわち精神世界の観念に名前をつけて、特定する。それは、共通の理解の場、同じ土俵を作るということだ。
お互いに、了解された定義で、考える、ということだ。しかし、もともとが定義次第なところがあり、こういう抽象概念というのは、互いの理解にズレというか、齟齬があるのは、日常的である。
 抽象概念というのは、誤解が生じやすい。それぞれが勝手にイメージするからである。定義の丹念なコンセンサスがない。
 さて、本日のテーマは「抽象の力」という言葉についての私論を述べることにあったのでした。
 名前というのは、それを聞いて、安心する、逆に、不安、恐怖となるものもある。
 私たちは、漠然としたものに安堵しようとするところがある。これは本能的な、思考回避なのだと思うが、だから、漠然としたままでやり過ごすことに、曖昧な名前というのは、好都合なのである。
 抽象の力というとき、その抽象は、因数分解というシステムで、抽出した言葉と考えていいのか。
 例えば、お笑いでは、笑いの核心というのは、抽象の必須要素と一致するのではないか。
 笑いの壺というのが、人それぞれであり、相対的なものとしても、その壺とされるところは、実は、本質を突くもの、それは因数分解の共通項と同じなのではないか。わたしは、今、そのような疑いを持っています。
 とすれば、概念世界の「抽象する力」というのは、物事の本質を見抜く力ということになります。私たちが、抽象するというとき、それは、かなり形式論理的な操作で、実質的な本質を抽出する操作をしている、こういうことが、言えないか、ということである。
 カリカチュアするというのも、つまり戯画化するというのも、顔の外見から、その人の顔をたちまち再現する、特徴というもの、これが本質となって、再現性を可能にするということではないか。戯画化というのは、誇張と歪曲をないまぜにしたものであるが、誇張と歪曲が、実は、ものの本質を炙り出すということに、風刺の風刺たる所以があるということであろうか。
 抽象の力の実際
 英語では、形容詞、副詞という品詞が、五文型の要素の一つである補語という概念の理解には、欠かせない。形容詞は、副詞と違って、補語になるから、文の要素になる。ただ形容詞には、副詞と同じ性質もある。名詞を限定するという、修飾語の働きである。副詞は、主として動詞にかかる語でが、修飾語としては、同じ範疇である。ただ副詞は、文の要素には、なり得ない。
 このような説明をして、さて生徒が、どこまで理解してくれるであろう、ということである。
 お分かりであろうか。わたしたちが、何かを学ぶというとき、「抽象の力」が、なければ無理ということである。とすれば、子どもたちが、訓練をすべきは、何をおいて、「抽象の力」ではないか。
 わたしは、竹の会で、「抽象化訓練」というレジュメを昨年執筆して、使ったことがある。一つの実験であったが、何か月か使って、データを取った。考えて見れば、竹の会で、指導している割合訓練は、思考訓練というのはもちろんであるが、抽象の力を培うことになっていたわけである。
 わたしのレジュメのこれからの方向性というものを考えるとき、最近の、わたしの関心は、どうも「抽象の力」というのが、ライフテーマになる。したがって、レジュメの執筆方針、コンセプトというのは、そういう概念を基底にして、行くことになると予見しています。
 今は、実は、これからの指導をどう進めるか、ということについて、考えている。竹の会が、農閑期にある、そういうことから、これからの指導というものをじっくりと考え直している。例年なら、募集時期として募集しているはずですが、募集していないのは、そういう、わたしの未整理な心情が影響している。だから今は募集のためのアクションを取ることには消極です。頭を悩ませているのは、指導が私の描いているように進まない子らについてです。これから、子ども、親御さんの考えをお聞きして、対応を考えていかなければならない、と思います。
 今年は、多くても15名として、Bについての今後、将来的な武蔵小杉教室の可能性など、課題を抱えての船出となります。今の閑散とした教室風景を大切にしたい、そういう思いは強いです。

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