2021.11.25
○時には母のことを思い出して泣かないと!
最後に母は人の死に様を教えてくれた。そしてあれほど死ぬことを恐れて生きてきたように思えた父から何とも見事な死に様を教えてもらった。
人とは生まれた時に死を宣告されるのですね。無我夢中で生きていた若き頃、自分がやがて死ぬなんて想像の世界でしかない。いや想像もできない。
それでも心の奥底で恐れている自分がいたように思う。
大学に入った年の夏に祖母が死んだ。小学生まで祖母と一緒に寝た。小学高学年までお寝しょして祖母を困らせた。祖母は幼いとき布団に入るといろんなお話しをしてくれた。祖母が脳溢血で倒れたとき、本当に人は死ぬんだ、と思った。わたしは自分の悲しみや喜びを自分の外から鳥瞰するくせがあった。悲しんでいる自分を自分の外から眺めていた。
小学生の頃の母は、いつも忙しく動き回っている姿しかなかなか思い出せない。小学校のバザーのときは母は嬉しそうに私と弟にうどんを運んでくれた。あの頃の私も弟も何かキョトンとしていた。母がいないと不安でよく泣いた。あまり泣くので祖母が怒って何か言っていた姿が思い浮かぶ。
学校から帰ると母がいないと不安だった。とにかく動き回っている母を見ると安心した。母が喜ぶのを見ると本当に心は満たされた。母が悲しそうな顔をしていると不安で仕方なかった。
中学はいちばん勉強した。成績がいいと母が嬉しそうだった。だから頑張ったんだ。成績がいいと父もわたしを邪険にすることもなかった。高校は県下御三家の一つに進学した。わたしは幼かった。高校は鶴見と決めたいた。ところが中学の秀才たちはみな上野や舞鶴に行ったのだ。後から東大合格者数では上野、舞鶴が突出していることを知った。いつも何も考えないで、キョトンとしていた私。
上野は九州大学だけで100人近く合格者を出していた。鶴見は精々30人程度かな。
私は旧帝大しか頭になかった。親に反抗して勉強もしなくなった。だから落ちこぼれた。ギリギリ国立コースに温情で残してもらった。わたしには辛い青春時代だった。
高校2年のとき、自動二輪の免許を取り、卒業と同時に大型自動車の免許を取った。後年母をして、私と父の仲が悪い、ことを嘆かせたほど父とは仲が悪かった。
父と喧嘩して家を飛び出した。
いきなり東京-横浜間を毎日大型貨物トラックを運転したんだ。ところが素人の悲しさで、助手に格下げ。教育係の運転手から「使い物にならない」と会社の専務に告げられた。そこでベテランの運転手の助手として見習い運転手に格下げ、つまり給料助手並みとなり、技術を学ぶこととなったんだ。ところがその運転手はアル中でトラックが会社を出るとすぐに私に運転を交代させて助手席で酒を飲み始める。おかげでわたしは実践と実戦、体で運転を覚えていった。他のトラックを追い越すとき他のトラックのバックミラーを曲げたり、よくいろいろへまをして怒られた。その酔っ払いの教育係がかばってくれた。横浜の倉庫にバックでトラックを入れるのが、プロの腕の見せ所だった。みんなどんな狭い入り口でも一発で入れて自慢げだった。わたしは何度も何度も切り替えしなかなか真っ直ぐ入れることが出来なかった。ある時は倉庫の輸入貨物にトラックをぶっつけて叱られたりもした。わたしは必死で研究した。ハンドルと後輪の感覚をいつも観察した。一か月もするとわたしは周囲を感嘆させるほどの腕になっていた。自信を持ったわたしに、教育係は横浜の山道の運転を、任せたんだ。道路が狭くトラックもギリギリの道だった。右は山が削り取られたような壁、左は崖。しかも夜。怖かった。遂にカーブに差し掛かるとき恐くて私は内側に寄りすぎて木にの枝に幌を引っ掛けた。身動きできなくなった。そしたら教育係が「代われ」と言って、いとも簡単に脱出して見せた。山道から坂道に直角に曲がって急勾配を降りて行った先に集落があった。そこに寮があったんだ。ある時、会社の若い専務が、わたしの評判を知っていて、わたしは正式に運転手に戻されることとなった。
19歳。
横浜でどこだったかな、昼食とったんだ。その時レジの女の子が高校生くらいだった。
わたしはハっとこのままではいけないと思ったんだ。その子を見てそう思った。
会社辞めて、郷里の別府に帰ったんだ。父に頭を下げて、「勉強したい、大学に行きたい」と頼んだんだ。
九州大学に合格したとき、祖母と母が泣いたと聞いた。私は発表の日は映画館にいた。大好きなマカロニウエスタンを、見て不安を忘れようとしたんだ。だから結果を母に電話して聞いたんだ。母が嬉しそうに「おめでとう」と言ってくれたんだ。
母と祖母には本当に苦労をかけてきた。こんな私のことをいつも心配してくれて、泣いてくれた。
だからわたしはいつも祖母と母のために、二人が喜ぶ顔を、見たくて生きてきた。
しかし、祖母は突然倒れたんだ。心配ばかりかけてきた私がようやく大学に受かって安心してしまったのだろうか。
それからわたしは母の喜ぶ顔を生きがいに生きてきた。
だから母が死んだときは、立ち直れないほど辛かった。しかし、わたしには、二人の子がいたんだ。今度はこの子たちのためにわたしの生涯を捧げようと誓ったんだ。塾には、わたしの指導を待つ受験生たちが待っていた。わたしは指導をすることで悲しみを忘れることができた。一時だけでも忘れることができた。必死に没頭することが私の悲しみから逃れる方法だった。必死に指導に没頭することでわたしは忘れようとした。
わたしは、指導にすべてをささげることで、いつ死んでもいいと思うようになった。
突然死んでもいい。本望だ。
母が、父が、教えてくれたような、天晴れな死に様はとてもできそうにはないが、父さん、母さんの身をもって示してくれた死に様を忘れないで、身を処したい、と心に決めています。
12月18日、母の命日。
12月10日、父の命日。
二人ともそろって12月にこの世を去るなんて、仲のいいことです。
毎年、この頃になると、母のことを、思い出します。
コロナが蔓延して、母さんも、父さんも生きていたら、どんなにか戸惑っていたことでしょう。
ひとりでトボトボと歩くとき、きょとんとした自分の幼さを想い出す。そして母と父がいつもそばにいるような気になるのです。