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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

「迷う」の分析

2020.12.12

 

◎「迷う」の分析
 AかBか、Aと決めて、やっぱりBを取る、しかし、気になる、後ろ髪を引かれる、これはどうしたことか。
 石川啄木は、将来の職業を川原で下駄を投げてその表裏で決めた。
 第一印象で決めることの可否
 私の場合、第一印象で迷い、たいてい第一印象と違うものを選ぶ傾向がある。結局後で、手に入れるということがあまりにも多いので、私の第一印象はおそらく私の琴線に触れていることが多いのであろう。

択一問題(選択問題)のセオリー
 昔司法試験の択一式を受けていたとき、5肢のうち2つには簡単に絞れる、が、そのどちらかを選ぶと必ず逆の方を選んだ。私は択一が苦手だった。昭和55年に初めて択一に受かった。あのときは、風邪をこじらせて肺炎で熱が下がらず39度前後が続いた。やっと熱が下がったのは、試験前日のこと、もう1か月以上勉強してなかった。わたしは郷里の大分から試験会場の博多に向かった。もう何日も何も食べていなかったので、体がふらついた。わたしはもう試験を諦めていた。だったら、とにかく考えてやれるだけやってこようと思った。短答90問中10問は残した。憲法、刑法、民法の3科目、受験者30000人、合格者3000人の試験だ。私は失意のままに郷里に帰り、また来年に向けて勉強を始めていた。試験から3週間、実家の二階で勉強してたら、母の叫ぶ声がする。「○○ちゃん、大変や、法務省からはがきが来ちょるよ」。これはまさに青天の霹靂、私はあのときの驚きを今も覚えている。直前にほとんど勉強できなかった。しかも体調は最低、これで受かった。私は不思議な気持ちに包まれた。じっくり考える、考えて自分の答えを書く、決して思い出して書くのではない。
 択一の苦手な私が初めて択一の解き方について、一つ学んだ。考えろ、考えて書けばいい。
 それよりも学んだことがある。よく試験直前の追い込みなどと言って、試験直前に無理をする、詰め込む、がむしゃらにやる、そういうことは実は必要ないのだ。どころか害悪なのだ。思考を停止する、頭がテンパって焦り、つまり読みが空回りする。咄嗟に覚えたことを思い出そうとする、短絡的になり、順追って考えるという、思考の初歩的な手順はすっかり頭から消えてしまう。
 試験というのは、現場思考を尽くすことから勝機が生まれるものだ。問題を心落ち着けて読む。ここで精神を集中させる。余計なことを考えない。雑念を生ずるのは「不安」があるからである。そして「欲」があるからである。欲は理性を飛ばす。自尊心が雑念を生む。
 問題にすっと入っていけるか、これで決まる。焦って正解を急いではダメだ。問題を丁寧に、薄紙を剥がすように読んでいかなければならない。ゆっくりでいいが、一定のテンポで読んでいくことだ。ゆっくりといったが、のんびりではない。丁寧に読み取らなければならない。
 よく難しい問題は後回しにするというのがあるが、都立の問題ではそんなことは必要ない。1番から解いていけばいい。詰まれば先へいくというのは、一見合理的に見えるが、次に、詰まればまた飛ばす、するとほとんど解かないで飛ばしてばかりいることになる。要は、飛ばすというのは、勉強不足、実力不足の人がやることだ。
 焦りは、これまでの勉強不足、引いては実力不足がもたらすものだ。
 自尊心が高い子の失敗
 そもそも雑念が全く生じない子もいる。自尊心が高い子には自信家が多く、試験が終わると「ほとんど解けた」とよく言う。つまり、解けたかどうかもわからないのだ。解答用紙を埋めたらみな正解したと信じている。
 自尊心が強い子には、もちろん自信が持ちきれない子もいる。そういう子は雑念というより迷いが飽和して自信喪失に陥ることはよくあることです。

出題者心理を逆手に取った択一攻略法
 だが、これはある意味邪道である。ただ知恵の範囲内とされる技術は援用するのがクレバーではある。
 5肢の中から1つ選ぶとき、本文と肢の中の表現との同一性を判断基準とするのは、セオリーである。肢の主張を本文の中に探すのもセオリーである。しかし、その前にチェックすることがある。
 肢の中に、全く「正反対」の肢があれば、正解はその2つの肢の1つである。他の肢は飾りである。
 肢の中に、同一語、同一表現、類似表現が使われている肢が、5肢のうち3肢あったら、正解はその3肢の中の1つである。
 肢の中に類似表現肢が、2組あれば、そのどちらかの組が正解の組であり、その中から1つ選ぶ。
 本文の中に出てこない表現を使った肢はたいてい嘘である。ただ時々、本文の言葉と同義語をわざわざ使って惑わせることもある。
 こう抽象的に書いてみてもピンとこないかもしれません。とにかく出題者というのは、簡単に正解肢が見破られることだけは避けたい。だから正解肢を睨みながら「似た」肢を作る。妙に「詳しい」肢を作る。正解肢を睨みながら「反対」の肢を作る。正解肢を睨みながら「紛らわしい」肢を作る。だから、選択肢を読むときは、この肢は「どの」肢を見ながら作ったのか、と考える。もちろん基本は、本文の該当部分の対照にあることは忘れてはならない。
 ※実例
 たまたま手元に明大中野高校の過去問があったので、そこから紹介する。

問18  傍線17「何かをか懼れん」とありますが、その意味することを次のア〜エの中から1つ選び、記号で答えなさい。
ア 何かを恐れている
イ 何かが恐ろしいだろう
ウ 何も恐れることはない
エ 恐れるものがあるべきだ

※分析
まず、「何」という共通語があるから、正解はこの中にある。正解肢には、「」という語があったのであり、そこから偽肢を作ったからである。ア〜ウには、「」という共通語もある。よく比べると、「恐れる」「恐れている」と「恐ろしい」は質が違う。となると、アかウが正解肢の可能性が強い。アはマイナスの心情、ウはプラスの心情。おそらくウが正解肢である。確かに正解はとある。なお、小説問題の選択肢では、登場人物の心理をマイナスとプラスの精神で分類することもよくやる。

こういう解き方は、邪道である。だから私は本文と対照して正解するやり方を指導する。

問21  19に当てはまる言葉として最も適切なものを次のア〜エの中から選び、記号で答えなさい。
ア 検証という手続きを経て実証しない。
イ 実験という手続きを経て検証しない。
ウ 実証という手続きを経て検証しない。
エ 理論という手続きを経て実証しない。

 

※分析

 真反対の肢があります。アとウです。したがってどちらかが正解です。どちらか。ここで検証と実証の意味を考えてみる。実証は証明済みである。検証はまだ証明されていない。アは、証明してないのに、証明もしないと言っている。これが正解です。
イの実験という言葉は唐突です。エの理論という言葉は実験を見ながらでっち上げたものですね。唐突な言葉、激しい言葉、偏った言葉のある肢はたいてい偽です。

平成13年筑波大附属の段落を分ける問題
この文章を内容の展開の上から五つの部分に分けるとすると、どうなりますか。もっとも適当なものを、次の中から選びなさい。
ア ①ー②③④ー⑤⑥⑦⑧ー⑨⑩⑪ー⑫
イ ①②ー③④⑤ー⑥⑦⑧⑨ー⑩⑪ー⑫
ウ ①②③ー④⑤ー⑥⑦⑧ー⑨⑩⑪ー⑫
エ ①②③④ー⑤⑥ー⑦⑧⑨ー⑩⑪ー⑫

※分析

多数決
①②の結合は、3:1で、イウエ
③④の結合は、3:1で、アイエ
⑥⑦⑧の結合は、3:1で、アイウ
すべてに共通なのは、「イ」で、実際「イ」が正解!

 私はこのような方法で正解が出せるなんて、甚だ宜しくないと思います。しかし、この方法は出題者の心理を推理すれば簡単に答えがわかるということで、悔しいが凄い方法です。悪魔の方法です。
 わたしは子どもたちに教えてこなかった。本来の国語ではないものを教えることはできない。

解への道筋

 無茶な道はない。ごく普通に考えたら解けるように作られている。
 これが、入学試験問題、資格試験問題の暗黙の前提である。試験は、私たちに神の能力を求めているわけではない。とにかくめちゃくちゃな難解な解き方をしなければ解けないとか、ほとんど知られていない知識が問題を解くためには必要だとか、そういう能力は求めていないのだ。普通に考えたらわかる問題を出している、と考えてよい。だから素直に問題を読んで、素直な当たり前の、常識的な「道」を進めていけばいいのだ。言いかえれば、難しく考えるな!ということだ。迷路に嵌るのは、難しく考えるからだ。ひねくれて判断するからだ。簡単な道は予め用意されている。ただあなたたちが、それと気づかないだけだ。見落としているのだ。わたしはよく「子どもたちにこんな難問を解かせるわけがない。必ず子どもたちにも解けるように作られているはずだ」と思い直して、はっ、と気づくことがよくあった。私自身が、数学が得意であるので、どうしても難しく考える傾向がある。だからいつも戒めている。
 問題を解くとは、予め用意された正解があり、一つ一つ丁寧に細かに道を外さないように慎重に進めていく、そういうことなのではないか、と思う。「先生、わかりません」と言う子どもには、一緒に考えます。わたしも悩むことがあることを教えます。「あれっ」と詰まる。そんな姿も見せます。わからないところから始まりなんです。それであれやこれやと考える。わからないからとすぐ白旗あげて、丸投げしてたら、そりゃー、思考放棄ということですから、とにかく道を見つける。目の前にある道に気がつかないだけなんですから。わたしは道の探し方を教えることはする。だから問題読んだら必ず「図にかいてみろ」と言う。図にかけないなら問題がわかっていないということを教える。
 普通に考えて解けるように作られている。だからその普通の道を見つけてほしいのだが、わからないという子のほとんどはそもそも問題を理解していない。つまり説明のレベルが問題の意味を教えることで、問題の意味を理解して道が見つからないというのとは違うのだ。
 算数で「図をかく」というのは、問題を理解するための手段である。ところが、図をかかない、いやかけない子がなんと多いことか。この時、字が汚いともう絶望的な気持ちになる。字が汚い、読めないために、わかるものもわからなくなる。クリアーな図が思考を助けてくれるのだ。だったら文字も図もクリアーな方がいいに決まっている。レオナルド・ザ・ビンチのノートの図は手書きには見えない精緻なものだった。文字、図が天才を助けている。東大生のノートという本が出たことがある、あのノートも素晴らしかった。緻密な字は緻密な脳を予感させる。そうなのだ。人間は記録するから能力を開花させ、伸ばすことができるのだ。緻密ない観察には緻密な文字が似合うということだ。

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