2021.08.30
あたりまえのこと
かつて司法試験(旧)について、言われていたことを思い出した。九州大学の同期が、4年のとき、合格した。大学の図書館でたまたま会って話しを聞くことができた。あの年は、例えば、会社法は、法律というよりむしろ経済、というか数学に近い出題だった。自分の考えたことを1ページ書いただけだったから、受かってるとは思わなかったらしい。刑事政策なんかは間に合わなくて、薄ぺらな新書を読んだだけだったという。彼は55番で合格している。後に大阪高等裁判所の所長になった。彼を見ていると、大学受験の延長のような感覚だった。司法試験だからと特別視してないのだ。受験勉強感覚なんだ。それで「あたりまえのこと」を書いてきただけだという。
ここに試験の本質が垣間見えていたと思う。
予備校は、特別な試験だから、特別な勉強が必要だと言う。予備校が用意した、やたら高いテキストが、合格に必須という風潮が、受験界に広がる。
もともとは、大学の授業、大学の先生の書いた本が、試験にはそのまま使えないところから来ている。予備校がこの障壁を一気に崩した。わかりすい、整理したものを売り出しのだ。次から次に便利なテキストが出た。ほとんどの受験生が飛びついた。こうして、みな予備校のテキストで勉強するという異様な世界が出来上がってしまった。
予備校はやり過ぎた。膨大な知識を次から次に整理してしまう。どんどん範囲を広げていった。ある意味自滅行為とも言えた。
ちょっと待てよ!何か違うのでは!
勉強とは、もっとシンプルなものではなかったか。
高等文官試験時代の司法科試験では、九州大学の井上正治教授は、昔の体系書だからおそらく薄かったと思われるが、それを寝ても覚めても読み返したという。そんなシンプルな勉強で6か月間下宿に籠もり、先生はなんと2番で合格したという。シンプルなほどに思考の世界は広がるというのがわたしの持論であるけれど、先生はおそらくあたりまえの思考をめぐらしたにちがいない。
そうだった。大学入試にして、そうだった。各科目に一冊だけ用意して、それをもう頭の中に完全に入れてしまう。この頭の中に入れるということは、言い換えれば、その参考書のどこから尋ねられても答えられる、ということを言う。
自分の頭の中にスーッと入るかは、その量による。司法試験や司法書士試験では、余程考えて、一冊の参考書の厚さを決めなければならない。
かつては、民法と言えば、我妻栄の民法講義が挙げられた。しかし、あれは全く使えない。総則だけで500ページ超ある。それから物権、担保物権、債権総論、債権各論は4分冊ある。不法行為と親族相続は、ダットサンを使うとしても、これだけの量を基本書とすれば、頭に入るまでに何年かかるかわかったものではない。
予備校は、それを要領よく整理した。しかし、違うのである。
大学受験と資格試験とは、またアプローチは違う。範囲が広ければ広いほど網羅主義、完全主義は挫折する。というか、そもそもが間違っているのである。
私は、基本大学受験の一冊主義の精神がそのまま妥当すると考えている。
それぞれに具体的なアプローチは既にある。
基本シンプルでいいのだ、と思っている。
よくよく考えてみたら、あたりまえのことだと思う。
そうなのだ、私たちは、あたりまえのことをあたりまえにやっておけばいいのだ。
どんなに難しい試験だからといって、そのために無理難題を押しつけることはない。人間にできる、あたりまえのことを求めているに過ぎないのだ。
もし無理難題と感じたのなら、あなたたちの考えが、あたりまえではないということなのだ。
私たちの通る道筋は、あたりまえと思える道を通ればいいのだ。難しいと勝手に思い込んで茨の道を通る愚は避けたい。
道は必ずある。あたりまえの道があたりまえにある。
あたりまえならこうなる。あたりまえに考えたらこれしかないな。
こうでなければならないは、あたりまえじゃない。
あたりまえの道を見つけてあたりまえに生きる。
問題を解く、考えるとは、あたりまえに考える練習に過ぎない。
私たちは、特別のことなど必要ない。特別の生き方もいらない。ただ、何事もなく平凡に暮らせればそれが一番いい、幸せなことだ。
ちなみに新型コロナで、政府は、あたりまえのことが何一つできなかった。それはあたりまえのことをこれまでやってこなかったからだ。
あなたたちのは、算数が難しいと思っているかもしれない。初めて適性問題に向かったとき、難しいと思ったかもしれない。もしそうだとしたら、あなたたちはまだ「あたりまえ」の意味がわかっていない。
適性問題は決して無理難題を求めているわけではない。あなたたちの頭で普通に考えたら、つまりあなたたちがあたりまえとする思考を進めたら、どうなりますかと訊いているだけなのだ。あなたたちが、それを特別に感じるのなら、難しい注文と思うのなら、あなたたちはまだあたりまえがわかっていないのだ。
平成7慶應藤沢
年中無休で24時間働いている工場がある。この工場では、従業員840人が8時間勤務の3交代制で働いてお平成7慶應藤沢
年中無休で24時間働いている工場がある。この工場では、従業員840人が8時間勤務の3交代制で働いており、全員が代わりばんこに週休2日を取っている。この工場では、常時何人ずつの従業員が働いていますか。
「思考の源」所収
この問題はよく子どもたちが、わからなくて、悩む問題だ。
あたりまえに考える。
全員が常時働いている。一人一日8時間働いて週休2日制だ。
だからあたりまえに考えると、840人の働く人が一人あたり週5日働くことになる。840×5=4200人の人が働いていることになる。これをのべ人数という。4200人を動かせる。一週間に➗7をして、一日に600人動かせる。また➗3をして、8時間で200人動かせる。
私たちは、あたりまえに考えることに鈍麻している。何か特別の方法があるのだと安易に、つまり考えない選択をする。特別の何かがあるとは、他ならない考えないという選択をしただけである。
普通の範囲で、あたりまえに思考をめぐらすこと、これを考えるという。特別な何かを知らないから解けないと考えた、その時点で、あなたは思考を放棄したことになる。
あたりまえにあたりまえのことを考えてください。