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これから区立中学に入学する小6の運命は入学前の2月・3月で確定する🔛同じもの、という判断

2024.02.20

🔛竹の会の合格実績は,決して「合格の全記録」ではありません。昭和62年からの合格記録はごく一部を掲載したものです。実際はその何倍もときには10倍もの合格者がいます。また,平成19年以降は,都立一貫校合格者・都立高校合格者のみを掲載しています。令和に入ってからは私立第一志望者の合格も掲載するようにしています。都立中合格がない年でも私立の合格者はいました。しかし,私立第一志望ではないため載せていません。載せていない中には大学附属などに合格した者もいました。これがすべての合格者と誤解される方がいるかもしれませんので,注記しました。

 

🔛同じもの、という判断
 異なるものを見分けるよりも同じものを見分けるほうが難しい。
 分数の計算から「わかる」、子どもたちの「同じ」ものかの判断から見る知能の段階
 養老孟司は、動物と人間の違いは、動物は、差異しか区別できない。同じという判断ができないという。
 動物の違うという判断は、同一なものも「違う」と判断するということである。
 例えば、テーブルの上のコップと、それを台所に置いたコップとは、動物には、違うと判断される。小学生のできない子というのは、この同一かどうかの判断で、本来同一なものが違うものにしか見えないのだ。つまり、判断は、動物に近い。
たとえば、帯分数と仮分数が、違うものに見える。だからなぜそう姿が変わるのかわからない。概念的には同じ数なのに、違うとしか認識できないのだ。
文章を読んで理解できない子というのも、根は同じです。文章の意味を理解するというのは、概念の同一性を認識することですから、できない子たちには、チンプンカンプンなわけです。
 文章を読むということは、概念の同一性を読み取る、という高度な精神作用を要します。
 国語ができないという子は、動物に近い脳の働きをしているということです。概念的なものの認識ができない、抽象化という働きが欠落している、ということです。
 動物と人間の違いは、対象を概念化して認識するのが人間であり、動物というのは、対象をありのままに写真的に捉える、そうすると、犬は、飼い主の同一性をどのように判断しているのか、という疑問は残る。犬には、概念というものはさすがにないと思うので、何かイメージとか,臭いとか、そういうものが、同一性判断を可能にしているのかもしれない。わたしにはわからない。
 人間は、文章の同一性を判断できる。概念比較である。国語の苦手な人は、そこのところがわかっていない。ただ問題集を解いて、答え合わせをするだけ、そういうものではない。
 その意味では、国語教師の質が大きくものを言う。言語論的転回をよく理解した教師、つまりは、駿台予備学校のように、東大大学院哲学科出身の国語講師であれば多分問題ないが(20年ほど前はそうであったが、今の講師の学歴は知らない)、公立中学、大手の塾に、そのような人材がいるとは思えないから、多くの生徒は、国語難民となるしかない。「本を読め」とか、そんな大雑把なこと言われても、何の解決にもならない。
言語論的転回を学んだ講師に指導してもらうしかないのだ。
わたしが、この境地に達したのは、まあ、ずっと国語指導について悩んできたという背景はあるが、養老孟司の雑誌掲載の文章が、日比谷で出題されたことがきっかけで、その原典を取り寄せて読んだこと、さらにわたしの蔵書の中に、同一性と差異について扱った書籍が相当数あり、関心のあった時代に集めた、未読の本ばかりであったこと、そこからかなりの問題意識を持って読んでいったこと、そこから、国語読解の本質にようやく気づいたこと、である。
 予備校ものはノウハウばかりで、どうも違うと思っていたが、石原千秋の述べる方法論も結局決定打にはならないのかな、と思います。予備校ものはどれだけ読んだかわからない。石原千秋は、書架に10冊前後はあるから、それくらいは読んだのだろう。
どうもわたしの中では、モヤモヤがずっと消えなかったわけです。
そういう心の渇きの中で、砂漠のオアシスのように、養老孟司の文章に、日比谷の入試を通して出会った、ということです。
言語論的転回については、石原千秋の本に詳しく出てきます。ですから、石原千秋が、言語論的転回を意識して文章を書いていることは間違いないのですが、そのことが、国語方法論に反映していない。

🔛これから区立中学に入学する小6の運命は入学前の2月・3月で確定する

 竹の会では、新中1というのは、例年1,2名しかいない。いない年もある。新中1というのは,概ねあまりにものんびりなのではなかろうか。4月なって入学すると、部活をいろいろと物色し、結局吹奏楽部とか、バレー部とかとにかく毎日遅くまで練習する部活動にのめりこみ、勉強は二の次になるのが相場と決まっている。こういう中学生というのが。8割はいて、高校入試も中3になっていい都立やいい私立などは論外で勉強しなくても入れる低偏差値私立の単願推薦で落ちとなる。親も親で中2まで塾には行かないで、中3になって突然竹の会なんかに電話してきたものでした。なんとも長閑なものでした。東京の中学生は大学には行かないのが大半だということを知りました。高卒か専門学校なんですね。ですから、平成10年まではそういう親子ばかり相手にしていました。竹の会の合格記録には都立でも第2グループの合格者は載せていないわけです。私立も低偏差値私立は載せていません。それどころか目黒あたりもかなり抜けているようです。だから合格の記録ではない。中にはこれがすべてだと誤解される人もいるようですので、ちょっと触れておきます。

 竹の会は、青山学院高等部とか、早稲田実業高校なんかには合格しているわけです。そういう合格を取れたのは、中1から熱心に通ってきた子に限られます。いわゆる難関高校というのは、早期に前倒しで進めていかなければ受かることはありません。

 わたしが竹の会で引き受ける中学生については、やはり前倒しで進めていくことに理解を示す親御さんでないと無理です。

 中学というのは、4月入学前に、数学ならできれば関数あたりまで、英語なら重要単語を300語ほどは書けるようにしておくことが大切です。これさえやっていれば、中学生活はひどい成績で路頭に迷うということにはならないと思います。ただし、中学でやっていくには、小学時代に割合を思考の道具として訓練してきたことが絶対の前提になると思います。竹の会出身の子たちがたとえ受験に失敗しても公立中学でトップの成績にある者が多いのは、そうした基礎訓練ができているからです。

 もし難関高校、そしてトップ都立をめざすなら、小6の2月から3月にかけて、わたしの言ったメニューをこなすことです。入学したら前倒しでとにかく進めることです。学校の授業がわからないとか、定期テストが悪いとか、こういうのはもうだめなんです。わたしのいう前倒しをやっていたらそういうことにはならない。学校は「やさしすぎる」ということを竹の会で成功した子たちはよく言いますが、そういうことなんです。竹の会で中1で挫折する子というのは、ほとんど学校に遅れています。学校の授業の後を追っている。そのほとんどは2月、3月のタイミングで失敗しているのです。ですから、竹の会でやるなら、とにかく2月、3月が勝負だと思ってほしいのです。

 それから季節講習を節約しないことです。季節講習が前倒しで進められるいちばんの機会なのですから。

 わたしは、「わたしのプログラム」でやった子が失敗したという経験はありません。失敗する子というのは、自らこれでいいというのか、自分のプログラムで勉強していくわけです。わたしは一度も相談を受けたことなんかありません。わたしのプログラムでやらなければ成功はないと思います。

 わたしのプログラムにしたがってやった場合にのみ合格をもたらすことができる、ということです。親の判断、生徒の判断で進める限りは、わたしは一切関知してません。都立戸山なら都立戸山のプログラムがある。日比谷なら日比谷のプログラムがある。開成に行きたいというので、親や本人などが別メニューを持ち込めばそれでわたしのプログラムは終わります。竹の会をちょっとだけ利用するというやり方はなりたたないのです。

 

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