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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

したがって、の文

2021.06.29

 

◎「したがって」の文
 一文を読めば、次に書かれることが、推測できる。文とは、次に書かれるであろう内容が推測できるものでなければならない。次の文の前には、かっこがあり、かっこの中には、「したがって」と書かれている。もちろん通常は書かない。もちろん「したがって」と書くこともある。このように文というのは、原則として、順接で繋がる。だから、順接でないとき、つまり逆接のときは、「しかし」とつなぐ。「しかし」の後に来る文は、「しかし」の前の内容と真逆の内容になる。現代文では、「しかし」の次に、筆者の主張が書かれることになる。これまで順接できた、波風立たずにきたのが、突然「しかし」と発して、反対の意見を披露することになるのである。これはまさに波風であった。
 わたしは、かねてより、現代文の班目について、わたしの見解を述べてきた。班目とは、ここで初めて使ったものであるが、比喩としては、ピッタリである。現代文というのは、抽象化と具体化のまだら模様の如くである。
 少し詳説してみよう。
 文というのは、まず前振りから入る。問題提起と言ってもいい。
 そこから問題の問題たる所以を掘り下げていくことになる。
 要するに、何が問題なのかを書くわけである。
 問題は、抽象的な提起かもしれない。それだと読む者に注釈がいる。だから前の文を受けて、具体的に書く。前の文を読んだとき、次に来る文の内容はある程度予測できなければならない。文というのは、前の文を受けて書く、つまり前の文と後の文を繋ぐのだから、それは内容的に繋がっていなければならない。文と文は、「したがって」とつなぐのが、文の流れをつくる。「しかし」は、その流れる文を堰き止めることになる。
  抽象的内容の文→具体的な説明→さらに具体的な説明→抽象的に総括する文(定義文)
  といった手順になるであろうか。
 国語の問いは、この文章のまだら模様が深く関わる。
 問いが、抽象文に関われば、答えは、具体的文の中にあるであろう。
 問いが、具体的文に関われば、答えは、抽象文の中にあるであろう。
  小学生の作文を添削していると、文に関わるこのような作法がないから、個々の文が、バラバラであり、感情で書いているから、思い出すように、同じフレーズを連呼する。文と文が「したがって」で繋がる場合を、「論理的」という。だから、小学生の書く文は感情的である。
 体験を書け、と言うと、どうでもいい、学校であったことを因果の流れで、しかもだらだらとした時系列で書くから、どうでもいい内容になってしまう。
 いいですか。具体的な事実は、簡潔に、まとめること、これを抽象化といいます。抽象化というのは、端的にまとめることと言っていい。具体的な事実を具体的に書いていたら、そこに知の働きはないことになる。まとめるというのは、抽象的に書くと言うことです。
 さらに言えば、勉強というのは、具体的なものの抽象化のことです。
 私たちの頭に具体的な事実ばかり並べても頭はちっともクリアにならない。
 私たちは、事実を抽象化することによって、頭の中に整除しているのだ。いや頭の中に入れるというのは、抽象化という消化過程を経ることだ。
 だから、どうしても「抽象化」ということの訓練が必要になる。抽象化というのは、端的に、ポイントのみを抽出することと言える。ポイントをどう選ぶか。文のまだら模様の抽象の縞から選ぶことになる。さらにその縞を抽象化する場合は、本文にない抽象語に言い換えることになる。ただし、受験国語でこれをやってはならない。受験国語は、「問いに答える」ことがすべてであり、答えは、本文をそのままに抜き書きするのが原則である。ただ、「あなたの考えを述べなさい」とあれば別である。このとき、自分の考えを書くわけではない。抽象の縞を自分の言葉で抽象化する、つまり、言い換えるのである。
 抽象化訓練というのは、長く私が、究極の思考指導として、構想を温めてきたテーマであった。試験的に制作した「抽象化訓練」レジュメは、今は中断している。私自身が、抽象化という概念定義の段階で迷っていたからである。
 しかし、ここ2年、関連の書籍をかなり読み、私なりの結論を得つつある。もっとも参考になったのは、マルクスの唯物史観の立場から抽象思考というものを力説した、学者の本であった。このときわたしに閃いた。子どもたちの思考訓練のかたちが見えた気がした。
 何か、書けるかもしれない。
 思えば、私は、抽象、具体の概念について、既存の書物に囚われ過ぎていた。抽象化と言えば、諸事実の共通する性質、概念に、集約する、というのが、既存の、出回っている定義であった。しかし、考えてみたら、私たちの、事実の本質を探り、それをより簡潔な、つまり抽象的な言葉で言い変える、こういう精神作用というのは、抽象化そのものでなかったか。
 私たちは、複雑な諸事象をシンプルに翻訳し、できるだけ単一の原理で説明しようとしているではないか。これをこそ抽象化と言わなくてなんと言おう。
 抽象化という思考作用を私たちは、普段から、意識しないで使っているのだ。
 私が今考えているのは、思考力をつける新たな指導法だ。今、竹の会では、割合という概念を使った思考力を作る方法が、体系化され、成果を上げている。
 わたしは、国語を手段として、思考育成の方法を早くから模索してきた。これは長く私が温めてきたアイデアであったが、なかなかわたしには一つの思考システムとして構想するに至らなかったという経緯がある。作文が書けないという子たちを目の当たりにしてきて、わたしには、ますますモヤモヤが溜まっていった。長い間、構想ばかりでなかなか具体的なイメージが湧かなかった。関連書籍をどれだけ読んだことか。割合指導でミクロマクロに辿り着くまでも長いトンネルであった。子どもたちの未脳を思考型、論理的思考型にしていく、これは壮大なロマンであったのやもしれない。
 わたしは、ようやく道の出口を見つけたのかもしれない。
 レジュメ化の道
 複数の具体的事実の抽象化というと、それぞれの事実の共通な何かの抽出ということなのだが、これは、個々の事実を木に見立てて、全体的に見る、森として見る、ということである。あるいは、上位概念に昇華していく、と言ってもいい。集合論で言えば、包摂関係として捉えることである。AならばB、のとき、AはBであるための十分条件といい、BはAであるための必要条件という。これは、AがBに包摂される関係を言っている。抽象化というのは、このような包摂関係を広げていくことである。
 例えば、日本人ならば人間である。というとき、日本人は、人間の十分条件であり、人間は、日本人の必要条件である。人間の十分条件には、日本人のほか、アメリカ人、イギリス人みたいにたくさんある。これを人間という言葉で包摂することが、抽象化にほかならない。
 こうして、抽象化というのは、包摂関係を広げていくことだと言える。
 もう少し
 森ならば木は成り立つ。森はもちろん木であるから、木の十分条件と言える。逆に、木は、森の必要条件である。
 つまり、木の有り様は、一本杉、林、森と色々ありうる。そのいずれも最低でも木は含まれる。だから、木は、森の必要条件である。また、森は、木の集まりであるから、森は、木の十分条件といえる。
 ここで混乱しそうなのは、木は森の一部だから、森の方が上位概念ではないか、ということである。木を見て森を見ず、というときは、この文脈で使っている。この場合、一つの森を全体と見ているから、違う使い方をしている。
 竹の会で、これから構想を具体化していく、つまり、レジュメ化していくとした場合
○ 抽象語で言い換える
○ 百字でまとめる
○「見出し」という抽象化
○「タイトル」という抽象化
○「要約」という抽象化…これは既に課題レジュメとして実施中である、
○ 文章を抽象化○定義化
○共通の性質

などが考えられる。

 抽象化とは、簡潔に言い換えることだ!

具体的な言い回しを抽象的な言い回しにすること、これこそ抽象化の本質だ。これまでの抽象化に関する文献をいくら読んでもしっくりこなかったのは、わたしの心の中で「違う」「これじゃない」という気持ちが、ずっとあったからなのだと思う。マルクスの弁証法は、抽象なんて語はどこにも出てこない。私は読み解く、その時、理解に努める、同時に、私は、目まぐるしく、抽象語、抽象フレーズについては、具体化を、具体的なものについては、抽象化をしている。「要するに」と頭を巡らす。これは、抽象化を試みるときだ。抽象化することで、見えてくることもある。逆に、具体化は、全体の理解が遠のく。木を見て森を見ない、と言うが、具体化というのは、森を見ない。抽象化というのは、森を見る、つまり、全体を鳥瞰する、ことだ。具体化が必要なのは、抽象が過ぎて何を具体化したのかわからないときだ、こういうときは、一旦具体化してみることも必要だ。

 怖いのは、子どもは、何も訓練しなければそのままだということだ。私たち大人が、適切な指導をしなければ、それは子どもには大変不幸なことだ。子どもは適切な教材を与えてやれば、つまり、訓練すれば抽象化の意味をすくすくと伸ばして行くことだろう。これこそが、読解力をつける王道だ。放っておけば無垢のままだということだ。大人が、お膳立てをしてあげさえすれば確実に変わるのに。しかし、現実の世の中で、だれも何もやっていない。いや少なくとも小学生向けの塾というのは、中学受験の国語の過去問から作り出した問題集を子どもたちに解かせる、そんなことしかやってない。どう読解すればいいのか、なんて具体的に、手取り足取りと説明する。中には、読み取りの法則みたいなものをいろいろ作り、これをテキストにして、商売するものも出てくる。
 人間というのは、とにかく面倒くさいのだと思う。だから何かを学ぶとして、どうしても面倒くさいから、シンプルにまとめて、本質だけ、要点だけを頭に入れる、これが、すなわち抽象化ということなのだ、
 面倒くさいというのは、だからやらないというのが、凡人ということなのだが、天才の面倒くさいは違う。未来において面倒くさくて手間を取りたくないから、今手間をかけておく、という発想だ。これは、将来の面倒くさいがとても嫌ということと、とにかく結局「やる」ということでは、本質的に違うということである。凡人の面倒くさいは、やらないで放り出すだけだ。
 それから中学受検、高校受験を指導してきて、わかったのは、多くの親や子は、物事を漠然と楽観しているということだ。例えば、習い事、稽古事、スポーツ、家族旅行、家族行事などをとにかく当たり前のようにやる、それで受験に漠然と成功すると思っている。なんとも楽観的な人たちだ。
 しかし、もし受験に成功したいと本当に考えているなら、そうはならない。まず、本番の日から、逆算して、合格するためには、何をどれだけ、時間、時期を考えて、やっておかなければならない、と考える。
 そうすると、必要な日数、一日あたりの時間が、自ずと割り出されてくる。勉強はその見通しの元に進めていくべきなのであって、まず、習い事、稽古事、スポーツなどがあってそれらをこなしながらということにはならない。
 逆算しないから、落ちるのだ。逆算すれば、習い事、稽古事、部活なんてとてもやる時間なんてない、そんなことは誰でもわかる。なのに、この人たちは、自分が受験する、近い未来のことも考えられない。そんなことなんとかなる、直前頑張れば、ちょっと無理をすれば、その時だけ習い事、稽古事休めば、なんとかなら、いや「受かる」と思っているんだ。漠然と楽観している、少し頭を働かせればわかる簡単な計算だ。部活、好きな趣味を思い切りやっていてもなんとかなる、とどれだけ楽観しているのだろうか。計算間違いではない。計算さえもしていないのだ。
 ここで、東大に合格した者と落ちた者の差を考えてみよう。
 もし能力的に問題がないなら、合否の差は、逆算思考、いや逆算をしたかどうか、の差だ。
 本番を見据えて、逆算する、本番で合格するだけの学力を想定して、そのためには、どの時期に始めて、どの時期に何を仕上げるか、すべて逆算で決まってくる。ここで、この逆算式に、部活や旅行など入れるバカはいない。少なくとも合格するほどの受験生ならそんなバカはいない。逆算からやれる参考書、問題集も、自ずと決まってくる。いいですか、漠然と勉強なんかしてたら受かるわけがない。落ちたときの面倒くさい手間を考えたら、逆算して出たノルマは手間暇かけてやるほかない。もう夢中でやるほかない。合格する奴の勉強とはそんなものだ。
 竹の会は、逆算して、これだけの勉強をしろ、習い事、稽古事、スポーツなんかやってる暇などないと言ってるだけです。習い事や稽古事やって、漠然と頑張れば受かると思うなんて、なんとも能天気なことである。

 話しは完全に横道に逸れたが、竹の会は、抽象化という分野をこれからの指導のもう一つの柱とする、であろう。それは、抽象化の訓練を体系化を意味する。わたしは、世の親たちが、「うちの子は読解力がなくて」と嘆く姿をたくさん見てきた。かつての私はその悩みに対して、明快な、具体的なビジョンを持ち合わせていなかった。ニュートンは、真理の大海はすぐそばにあるのに人間は気づかないで通り過ぎる、みたいなことを言った。大学受験参考書の英文で読んだ気がする。私が、真理の大海に気づくまでに本当に何十年も要してしまった。そのためには、たくさんの本を読まなければならなかったし、多くの指導を体験しなければならなかった。探し物は、たいてい自分のすぐ近くにあるものだ。
 竹の会がまた一つ進化する。
 新型コロナ禍、またわたしの体力の限界、そんなことを考えていたら、竹の会はいつ終わってもおかしくないな、と思いながら、私の頭は目まぐるしく、進化の過程に巻き込まれていく。竹の会は、いつもそうだった。わたしは、竹の会を進化させる、それが私が竹の会に存在する根拠だった。

 

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