2018.12.08
本日、九州の別府から帰りました。6日朝8時に羽田から大分空港へ発ち、午前中には父のいる実家に着きました。父は今年の2月に余命1年と診断され、7月下旬にはまだ元気で、わたしと姉、弟家族、あちこちに散らばっていた孫も、みんながそろって会食をしたのでした。父の長年の思いが叶った、幸せな時でした。それから8月まで、なんと7回もステント交換の手術をしました。わたしは8月の終わりにかけつけましたが、その時は比較的元気でしたが、わたしが東京に帰るとまた発熱、ステント交換、入院中に脳梗塞を起こし、しばらく病院に放置されていましたが、弟が発見、すぐ薬剤を投与しましたが、言語機能が麻痺してしまいます。それでもなんとか歩けるようになり、「家に帰りたい」という鉄の意志を家族に示し、弟家族が介護をすることになりました。脳梗塞の後の10月にはわたしは最後と覚悟してまた大分に帰っています。弟夫婦の献身的な介護のおかげか、少しずつ食べられるようになり、歩くこともできるほどに回復したのです。しかし、12月に入り、突然動けなくなり、寝たきりになりました。6日は、医師が見えて、肝機能低下、腎機能低下、血小板減少など最悪の検査値が示され、もってあと数日と宣せられました。わたしは6日、7日と父の傍から離れませんでした。父はよくわかっており、ただ言葉にならない。かすかに何か言います。いやときどきはっきりと何か言うこともあります。昨日の夜は突然激しい震えに襲われ、足にはチアノーゼが出ておりました。舌はからからで口内炎で腫れ、もう何日も水しか飲んでおりません。昨日の夜はお別れかと覚悟しましたが、今朝すがすがしい顔を見ることができました。わたしは、日曜の指導がありますので、心を遺しながら、今朝は朝5時に起きて、7時過ぎの特急、新幹線と乗り継ぎ、東京に帰りました。早速仕事にとりかかっております。
申し訳ありません。しばらくブログを書けそうにありません。わたしには、今いる受験生を導く仕事があります。これからもたらせられるであろう、父の葬儀にも出れないでしょう。そう覚悟してきました。だから最後に父の顔、生きている、最後の父の顔を見てきたのです。これから竹の会の子どもたちを合格まで必ず送り届ける、それまでは父のもとには帰れない。そう覚悟してきました。
◎小6,中3の皆さんへ
竹の会は、1月で卒業ですね。ぎりぎりまでわたしはわたしのできる最大の手を尽くすつもりです。これで倒れてもいい、死すとも本望です。
それから高校入試を目標に竹の会にきている小6についても、1月で終わります。これは、将来の高校入試のための基礎作りという趣旨で、小学生を指導していること、そのことは、当然に中学でも指導するということは含んでいないからです。
当分は、新規の中学指導はしないつもりです。
◎最後に、指導困難な状況がずっと続きながら、退塾を先送りしてきました、小学生のみなさんにつきましても、1月を区切りにさせてください。
竹の会 塾長 阿部雄彦