2021.03.10
◎それでは受からない!
天秤の左が、合格の錘、右が不合格の錘、とする。今、どういう状態か、という話しである。ほとんどの子が、右に大きく傾いている。わたしは、子どもたちの指導を通して、常に、秤を見ている。算数の問題を解く子どもたちの値踏みをしている。秤は右に傾いたままである。日々の指導は、少しだけ上がった、その程度である。その鬩ぎ合いである。せめて釣り合うくらいにはなって欲しいと思う。中には、右の錘が、地についたままの子もいる。こういう子はそもそも受検は無理と思うのだが、私の方から、無理ということを申し上げるべきなのか、いつも思い悩む。親御さんが、子どものことが一番わかっておられると思うのだが、そうでもないようで、頑張ればなんとかなる、と漠と考えておられる節がある。
「それでは受からない」、子どもたちの指導のたびに、私の心に検査結果が重く伸し掛かる。指導とは、次の落とし所を見越して、する検査であり、検査の結果で、先へ落とすか、後へ落とすか、決まる。
指導では、図にかきなさい、字が読めない、もっときれいに書きなさい、式を書きなさい、式には単位をつけなさい、円の面積の公式は、などと、注意することばかりだ。この指導における注意を一度聞いただけで修正できる子なら、問題ない。同じ言葉を幾度も言わなければならない、しかし、決して修正されることはない、こういう子は、少なくとも、都立中学の受検は、無理なのではないか。
一度で修正できる子、そういう子が竹の会の求めている子である。いやとにかく二度、せめて三度で修正できればいいかな。
竹の会が、他塾に行かせるよりまし、そういう理由で、来て欲しくない。わたしの指導における注意のたびに、修正を重ねていく、それが進歩していることになる。
修正できない子は、つまり何度も何度も注意しても、改善ができない子については、そういう修正装置の外れた子を得意とする塾がこの広い東京にたくさんあるのではないか。竹の会にそういう仕事を託して欲しくはない。
塾というのが、指導だけに専念できれば、これほど幸せなことはない。しかし、相手はまだ未熟な、幼稚な人間である。なかなか理想通りには行かない。勉強以外のことで、頭を悩ますことは、指導に支障であることは明らかである。わたしはもう若くはない。若い頃のように、勉強に集中しない子たちを情熱を持って教育していくという熱血先生という選択はない。一年一年が勝負であり、この一年の指導に没頭して結果を出していく。騒ぐならどこか他所の塾に行ってくれ、そう思う。わたしに、本来の合格のための指導だけに専念させて欲しいと思う。
「騒ぐな」、「静かにしろ」、「大きな音を立てるな」、「物を落とすな」、何かと手がかかります。まだ子どもだから、仕方ない。そうは思いますが、それならば、別に竹の会でなくてもいいのではないか。そういう子が伸び伸びやれるところはあるのではないか。竹の会は、私の選んだ子に、私の英才指導をやる、そういうところにしたい。
わたしは、真摯に勉強に向かい合う子どもたちに、わたしの力をそのためにだけ注ぎたい。そう思っているだけです。
わたしは、本当に、勉強したい、力をつけたい、算数ができるようになりたい、そういう子の願いをわたしの持てる力で、叶えてあげたい。そういう子に私の持てる力を使いたい。わたしのやるべきことはそれ以外にはないと思っています。きちんと注意が守れない、すぐ騒ぐ、おしゃべりをする、揉める、口汚なく罵る、そういう子は、竹の会を勘違いしている。集中するのも能力であり、集中が無理な子は、竹の会を選ぶべきではないし、勉強以外で塾が楽しいのなら、やはり竹の会ではない。
○入会試験の狙い〜地頭がなければ受からない試験という前提
多くの親御さんが、おそらく誤解されていると思うのですが、いい塾とは何か。どんな子でも成績がよくなる、できるようになる、そんな塾はない。ありえない。もともとの地頭が良くなくても、できるようになる塾、そんな塾もない。藤井聡太さんが、将棋をやっていたからといって、誰でも幼い時から将棋を、やれば強くなるわけではない。誰でも大谷翔平になれるわけではない。持って生まれた天分、素質が彼らをして天才たらしめているに過ぎない。だから彼らが子どもたちに夢を与え、希望を与えることはない。
持って生まれた知能が、子どもの未来の勉強を規定していることは、誰も否定できない。だから、私は、ある程度の、最低限、ある程度の能力がなければ、とても指導することはできない。それで、まあ、ここまでの知能があれば、指導できるだろうということで、考えたのが、今の入会試験だ。しかし、この入会試験に合格しても、合格が保証されるわけではないのは、もちろんである。入会試験に合格しても、その能力ありと認められても、様々な理由で脱落していく子がいる。近年は、不可解な事例も生じている。かつては準合格を設けた。今は、仮合格がある。仮合格は、6か月指導して見込みがなければ退塾の約束である。近年は、仮合格者の中から、合格者が出ているから、仮合格はこれからも認めていくことになる。ただ、この何年か入会審査が甘かったことから、指導困難な子を抱え込むことになってしまった。竹の会の指導の力が優れていればいるほど、こうした指導困難な子ども、遅々たる進捗しかない子でも、とにかく少しずつでも伸びるから、退塾という話しが親御さんサイドから出てこない。親御さんから、成績が伸び悩んでいる、との苦情があれば、迷わず、退塾を切り出すことにしているが、退塾を申し出る人はいない。平成28年ごろまでは、竹の会から、退塾を告知していたが、摩擦、抵抗があり、無理と判断した。
今後、入会条件は、かなり厳しくしていくしかないだろうと思う。
現在、指導困難な子たちについては、辛抱強く指導するとしても、退塾をお願いするしかない事態も想定していくしかない。指導困難の主たる理由は、指導ができない、つまり修正ができないほどの能力不足ということであるが、もちろん、塾の静謐を妨害するなども、修正ができないという概念に含まれる。
私の指導を真摯に受けて、きちんと修正できていけば、かなりの確度で合格できる、私はそう思っています。私の想定したことが、機能しない事例の分析はこれから進めでいかなければならない。例えば、①入会試験A合格なのに指導が困難、②算数が「できる」評価なのに模試の結果が、できない子レベル、③理社過去問90%前後取っても、模試、本番で点が取れなかった、ということ、ですが、私の知らない真実が、必ずあるはずで、今後、これまでとは、違う検査法で対応していかなければなるまい。
私の指導に、ついてくれば、つまり指示通りに修正を重ねていけば、かなりの確度で合格する、合格させる、自信があります。今の私は、どうすれば合格するか、わかっていると思います。ただし、子どもに修正能力がなければだめです。修正できない子は受検は無理と思います。指導というのは、未熟な、いわば蝋のような状態の子どもの脳に型をつける作業です。脳の型は、子ども自身が、概念という枠組みを得てつけていくものです。子どもは与えられた概念、つまりプログラムにしたがって進めていけばいい。しかし、不正確な理解から、様々な誤りを犯す。そこでその度に私が修正していく。この修正を子どもが理解して二度と同じ誤ちを犯さなければ、概念は正常に型化していく。だからその上にさらに新しい概念を組み立てることもできるようになる。つまり、指導の成否というのは、子どもの側の修正能力にかかっている。子どもが何度注意しても修正できないと、指導は頓挫する。私は、この子どもの側の修正する力こそが、子どもの地頭なのではないか、と考えている。地頭のいい子は、一回の指導で、修正できる。よく言う進捗がいいとは、地頭の良さを言ったものである。
受検成功には、どうしてもこの地頭の良さというものが前提となる。