2023.02.25
めざせ‼️ 桜修館‼️
桜修館合格の正体を射抜く❗️
竹の会には、桜修館合格の確かな道筋が見えている。
令和2年の奇跡と言われた合格は、まさに奇跡、つまり例外として片付けられた。そして本年、令和5年の合格が、実は、例外が例外でないことを突きつけた。
これまでの桜修館合格とは、明らかに違う事例であった。
これまでの合格パターン
①算数 「推理の素」以上
②模試 早稲田進学会模試成績優秀者として複数回名前を載せる、特に、12月1月の模試が重要
③早稲田模試で100点未満(300点満点)はなし
令和2年・5年の特殊な点
①早稲田進学会模試の成績
100点未満を複数回記録
②最高点は、令和2年が170点台、令和5年が150点台
③成績優秀者として名前を載せたことはない。
令和2年・令和5年受検者の違い
〇令和2年
算数は「2010算数」まで修了。作文練習の経験は4~5回ほど。
合格の期待感→真っ白
〇令和5年
算数は「超速解」まで修了。作文練習十分。
合格期待感→無色透明
⚫私の期待感(直感) 「真っ白」とは?
合格の可能性・期待度が、高いときは、わたしは、確信をもってそう本人に伝えて来た。また、不合格を確信しているときは、何も言わない。さらに合格を確信できないというときは「可能性はある」とは言うけれど、その可能性には、実は2種類ある。①その可能性は希望的観測に近い場合。これは、後で説明するが、この希望的観測は悉く否定される運命にある。この淡い期待が報われることは終ぞなかった。この範疇に属するケースには、早稲田模試で名前を載せたケースも多々ある。なぜか漂う不吉な予感が私を支配する。なぜそのような感情が沸き起こるのかわからない。漠としたものだが、わたしのこのもやもやは必ず現実のものとなった。淡い期待というのは、裏に、実は不合格を十分にありうるものとして想定している。確かに、客観的には合格する要素があるけれど、なぜか、わたしの読みは否定的である。合格して欲しいという期待が、わたしの読みを打ち消そうとする、そういう心の葛藤がある。②その可能性はなんとも説明しがたい。「合格しますか」と問われても「わからない」と答えるしかない。この状況を説明するのが、「真っ白」という心理だ。確かに、わからないのだ。しかし、合格するかもしれない、と一瞬思う。しかし、わからない、だめかもしれない、と一瞬思う。そういう微妙な心理である。
①の「可能性はある」けど「それは希望的観測にすぎない」というのは、実は、合格はないだろう、という確信に近い心の反映である。こういう心情は、やはり本人に対する根深い「不信」「不審」というものが心の底に蠢いているからである。なぜか。私に不信感を抱かせる頻度が高いほどわたしの信頼は次第に薄らいでゆく。
不信感の層が重なる具体例
1⃣自分で解いたと言っているが、教室で解いたことはなく、すべて家で解いてきた。2⃣竹の会には「推理の素」や「新速解」などのやや難問を集めたレジュメがある。終わるのに、通常なら1~3か月はかかるレジュメである。ところがこれを家で3日で終わらせた子がいた。3⃣模試で名前を載せても信用できない場合がある。7月や8月の模試の場合である。それ以外は得点が冴えない、特に直前模試の結果が悪い。ちなみに12月の模試の成績がいい場合、たとえ1回でも好結果となることが多い。4⃣教室でのレジュメの出来(感触)が甚だしくよくない。これはかなりわたしにインパクトを遺す。特に、一問解くのに1回の指導日に終わらないというのは落ちパターンである。受かる子というのは、「速い」印象がある。試験とは制限時間を本質とするものであり、時間制限を破る性向は常に失敗の危険を宿している。5⃣教室で勉強に集中できない子は落ちる。おしゃべりが止まらない子、やたらふざける子、諍いがたえない子、ドタバタと騒ぐ子、とにかく枚挙に暇がない、これは要するに、私の注意を軽くみる、軽視する、つまりなめているということなのだが、その報いは確実に落ちるという結果で受けることになる。著名な、だれだったか忘れたが、これを「浮き足立ち症候群」と呼んだ人がいる。言い得て妙である。
さて、「真っ白」とは何か
同じ可能性があるのに、そういう不信はなく、ただ頭が真っ白という感覚を持つことがある。この真っ白なときこそ、突如として合格が降臨する、前兆なのだ。かつての合格はこの真っ白なときに降臨したものばかりだ。もちろん「この子は受かる」と確信の域に達したものは、99%受かった。1%は、ただ一つの例外だ。ただこの例外の子は3年後竹の会から筑駒・開成・渋幕とトップに近い成績で合格を果たすことになる。
「この子は受かる」と私に確信させる子はどんな子か。
ただ一つおしゃべりではないことは不思議と一致している。軽い鬱状態にある子ぐらいが受験にはちょうどいい。
次に、共通したこと、ズバリ知能が高いこと。わたしを唸らせるほどの知能であった。
次に、敬語をきちんと使えて、あくまでも謙虚である。控えめな態度には、大切なものは何かを知る賢さが見え隠れするものだ。私に対する態度も礼節を弁えた尊敬に値するものであった。
私の言葉によく耳を傾け、私の言葉を尊重し、私の期待に、実行をもって応え、責任というものが目に見える形でわたしに伝わってきたものだ。
わたしが逆に敬意を払うほどに私への敬意に満ちた所作が私の心を打った。いつしか「この子は受からなければならない」「この子は受からせなければならない」とわたしの心に決意が燃え上がった。俗にいう火が点いた状態だ。
落ちパターンの道を敢えて進む子たち!!
私の期待とはよそに自分の思う通りに行動する子たちがいる。わたしの言葉に耳を貸さないのだ。好き嫌いで反応し、わがままな心のままに行動する。社会性、協調性、全体の空気、そういうものを気にしないのだから、幼児性が強いということである。わたしはよくここは保育園ではない、と言うが、保育園児なみの精神年齢である。学校の堕落した精神を塾に持ち込んではならない。塾は神聖な学びの場と自ら一線を画さなければならない。学校でやっているからどこでも通用するなどという勘違いはしないことだ。
私の期待を裏切り続ける。それはほかならない、不合格に一直線に突き進んでいることなのである。それがわからない。わたしには、落胆と失望しかない。
期待を裏切るとはどういうことか
作文を結局ほとんど書かなかった。漢検はやらない、ときっぱり言い切る。家で家族にでも聞いたのか、もしかしたら学校の先生に聞いたのか、かもしれない。最後まで考えることを自己流でも解ければいいと勘違いする子もいた。それは多分に原始的な解き方であり、すべてを書き出すとか、すべてを当てはめるとか、といった類いのもので、思考力涵養には少しも役に立たない方法である。また、採点のときにわたしの解答集を盗み見る、たまたま同じ問題をやっていた周りの人の答えを見る、一度やったレジュメ集の答をこっそり見る、総じてカンニングと呼んでいるが、これができる子に意外といたりする。「騒ぐな!!」、この言葉を何度言わせたか。こういう言葉を発しなければならない時点で、既に私の期待は裏切られている。そんな言葉など言わなくても、私の期待に沿う子はいる。失望させればさせるほど自ら合格から遠のいていることがわからない時点でそれまでの才覚であったということだ。
私の胸を打つ子、私はそういう子に出逢いたい。期待に応える子、私をそういう子を思う存分に指導してみたい。
幸運は真っ白のときに降臨する‼️
わたしを真っ白にさせた令和5年桜修館合格者のこと
ひたすら勉強に集中したことは周りの人ならだれでも知っている。本来明るい子で家族や友だちとはいくらでもおしゃべりすると聞いている。しかし、教室ではおしゃべりは一切しない。たまにわたしに「先生、合格の可能性はありますか」と訴えるような目で訊いてきましたが、強い思いを感じました。彼女はものすごい勢いでわたしの課題に取り組んでいましたが、そこに桜修館に対する強い思いが滲み出ていました。しかし、レジュメの感触はよくなく、模試の成績も11月、12月には100点を大きく割りました。普通なら「これは合格はない」、いや「ありえない」と断じるのですが、彼女は「どうしたら合格の可能性がありますか」とまた訴えてきた。それでわたしはこれまでやってきたレジュメの7回解き直しを終わらせたら「もしかしたら可能性があるかも」と甚だ懐疑的ながら答えたものだ。彼女は7回解き直しが終わったことをわたしに報告してきた。このあたりからか、わたしの切り札ともいうべき「合否判定レジュメ」の正解率がよくなってきた。「合否判定レジュメ」は、その名の通り、わたしが思考の層の深さを試すのに苦心の末作りだした竹の会最高峰のレジュメである。このレジュメは合格で切り抜けた者は「受かる」と言っていい。それほどの作品である。その「合否判定レジュメ」の正解率がよくなっているというのは、合格がすぐそこまで近づいてきた、と考えていい。このレジュメで不正解が続けば不合格の烙印を押されることになるほどに恐いレジュメとも言える。このレジュメは制限時間を前提としている。もし無制限時間で取り組めばたとえ正解しても不合格の烙印を押されることに変わりはない。たとえレジュメに合格印が押されてもだ。また何日もかけて出せないというのも烙印である。その意味ではこの合否判定レジュメをクリアできなくても傷だらけになりながら正解先行で終わらせられたのは彼女だけであった。再び彼女は合格可能性を訊いてきた。「可能性はある」、そう答えたが、頭は真っ白だった。なにしろ模試で100点未満はあまりにもわたしには衝撃であったから。
竹の会に光明をもたらした本年の合格!!
あの「合否判定レジュメ」の威力に正直驚かざるを得ません。彼女が「合否判定レジュメ」という試練を乗り越えたところに合格の鍵がある。もちろん彼女の類い希な桜修館への思い、そこからの涙ぐましい努力、そういうものはありました。しかし、たとえ涙ぐましい努力をしても落ちた人はたくさんいました。特に、わたしを驚愕させたのは、早稲田模試の成績でした。あれで受かったのか? これは衝撃でした。模試では測れない何かがあった。模試は万能ではなかった。これからより竹の会オリジナルのレジュメが優先され。合否判断の基準となることであろう。これは彼女の功績といえる。わたしは、そのおかげで自信を持って合格を導く新しい「合否判定レジュメ」の執筆に、今度は、初冬ではなく、早く春から勤しめることになる。ありがたいことである。時間の余裕のあるときに、最高の作品を作る喜びにわたしは浸ることができるのだから。