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めざせ桜修館!! 落ちる人の型

2023.02.22

めざせ桜修館!!  

落ちる人の型
 直前におしゃべりする子は必ず落ちた❗️ もちろん騒ぐ、仲間と和気藹々などは始めからお話しにならない。
 試験というのは、思い詰めてちょうどなんぼの世界である。マイナスの見通しくらいがちょうど心にはいい。ふざける、ちょっかいを出して揉める、こんなのは、最初から受かる勘定に入らない。少し勉強が進むとすぐ人に教えたがる、こういうのも落ちる。 
 試験という不安と期待をないまぜにした試練に挑むには、軽い鬱状態がちょうどいい。ややマイナスの精神状態だ。先の落ちパターンの型は、むしろかなりの躁の状態である。よく少し緊張した状態がいいというのも、同じことを言ったものである。
 竹の会で期待されていたが、落ちたという子たちには、この躁の精神状態、つまり緊張感のない、むしろ弛緩した精神状態の子たちが多い。よく大晦日に紅白を観ると落ちるというのも同じ文脈である。お正月に親戚が集まってワイワイやるというのも試験にはマイナスである。直前に実家帰省というのも躁を持ち込むことになる。
 試験に対する不安は緊張を生み、それにじっと耐える、そういう精神は、自ずと孤独な世界に踏み入ることになるはずだが、根が楽天的な人は、躁を求めて止まない。この孤独世界にいたたまれず、不安から逃避するために、やたらおしゃべりすることになる。騒ぐことになる。これには、実力の足りないことを悟り、さらなる不安に襲われ、騒ぐという末期の人も含まれる。
 試験とは、自分をマイナスの精神状態に追い込んでいくことが戦略となる。試験直前に明るい、やたら笑う、いつも喋る、こういうのは、落ちる兆候である。躁になったら負けである。自信があるから明るいというのは違う。そもそも鬱にある人は、どんなに勉強しても、模試でどんなにいい成績を取っても、それで明るくなる、自信を持つ、などということはないのだから。模試が良くても本番はうまくいかないかもしれないと心配するのがちょうどいい。模試がいいからと自信をつけて躁になるのはかなり危険である。
 だからわたしはあまり褒めない。よく「先生、もっと褒めてください。うちの子は先生に褒められるともうその喜びようは尋常じゃありません」と母親に言われる。しかし、私は褒めることに躊躇してしまう。だからわたしが褒めるのは稀なことで「君はこの問題が解けたのか」と思わず驚嘆したとき本心から出た言葉だ。意図して褒めるとどうも見透かされている気がして収まりが悪い。
 褒めるというのは、自尊心を満たす行為である。本当に解いたのなら自尊心は満たされても至極当然だ。しかし、自尊心というのは、心の片隅に棲息しているべきものである。もし自尊心が心を支配するほどに存在感を示すと、心は自尊心にジャックされてしまう。自尊心の暴走である。褒められるためには、嘘をつくのも厭わない。他人の成果も横取りして、自分の成果にする。難しいことには背を向ける。わからないのに、「わかっている」ことにする。わたしほどの高い自尊心なら難しいとされる問題もわかることにしなければならない、このような自尊心を心に飼い始めたら、嘘という殻で覆われた、中身の空っぽの人間が出来上がる。
 自尊心の餌は、他人の褒め言葉である。私は、褒めるということに躊躇する。自尊心の強い子は、往々にして、すでに殻で覆われてバリアーを張っていることが多い。自尊心の強い子は、他人の批判に敏感に反応し、凄い勢いで反発、抵抗する。また自尊心が傷つけられることを恐れて逃避行動に出ることも多い。自分ができないこと、しないことを指摘されることに本能的に反抗してくる。非難する人には、大嫌いと公然とはばからない。
 こうして自尊心は、試験には、誠によろしくない心のあり方だということである。自尊心が試験を破綻させることはよくよく知っておかなければなるまい。
 自尊心の奴隷となった心は、巧みに「褒め言葉」を勝ち取ることに心を集中するであろう。広い意味のカンニングをしても答えを提出して合格の判定を得ることに意義を認め、不合格、できないという判定を下されるのを極力避けようとするであろう。
 こうしてわたしは「褒める」ということに億劫になった。本当によくできたな、と思ったので、褒めたら、裏目に出ることがある。もともと知能の高い子は、自尊心も旺盛であるから、褒められると「ありがとうございます」なんて言うが、褒められることが当たり前になるほどに慣れてくると、やはり自尊心の暴走が始まるのだ。知能の高い子の自尊心の暴走は、試験破滅に一直線となることが多いので、要警戒である。
 だからわたしが、褒めるときは、余程の時である。お母さんたちには、先生はなかなか褒めないと思われているが、そして確かにその通りなのだが、その代わり私が褒めるのは余程のことだと思う。だからこそ、褒められた子どもはことのほか喜ぶのではないだろうか。いつも褒めている先生が褒めてもそれは口癖にしか取られないのではないか。

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