2019.01.29
本番まで 5日 初日不算入本番の日まで
🔵もう、ダメだと思った時、絶対に諦めない
テニスの大坂なおみ選手の全豪決勝は圧巻でした。もう勝ちかと思ったら、相手が逆転して、最終セットに、それでまた絶体絶命
今できることに全神経を集中する、勝つということは、そういうことです。
勝つというのは、何があっても、どんな事態に陥っても、絶対にあきらめない、今できることに全神経を集中する、ということです。
よく勉強の方法がいいからできる、できたなどいう人がいる。我が子が何人だったか、忘れたが、みな東大医学部に入ったという母親が、テレビに出たり、本を出したりと、怪気炎だ。笑える。はたや東大医学部で司法試験に合格した天才が、また方法論の本を出して怪気炎。マスコミも、親も、これに飛びつく、だから笑える。
勉強の方法なんか、なんだっていい。そんなことはどうでもいいことなのだ。勉強というのは、要は、全神経を集中させてやる、これだけのことなのである。方法もクソもない。ばっかじゃないの。もともとの天才が、東大医学部受かったて、それはいい、しかし、わたしの子育てとか、わたしの方法などとたわけたことを言うんじゃない。小2で高校数学をマスターした天才が、方法論もクソもない。そんなの凡人にはただのゴミだ。凡人が方法真似して、ただのアホでしょ。
勉強の方法はなんでもいい。どれだけ勉強に集中したか、継続したか、それが一番の問題だ。
凡クラ、失礼、凡人と天才の差は、集中力の差だ、集中持続時間の差だ。
試験というのは、全神経を集中した者が勝つしくみのことだ。
上がるとか、焦るとか、ブレるなどというのは、意識が、集中しきれてないからだ。そういう、すんなりと問題に入れないというか、集中できない人間が、失敗するのは、凡人ゆえの定めなのである。あなたたちが、やらなければ、ならないのは、どうしたら、スッと問題に、入れるか、である。
意識の集中のさせ方をこそ、自分流に作り上げていくことこそ、肝要なのだ。
問題を見た途端に、スッと入り込むとか、腕時計を見た瞬間、スッと問題に没入する、周りの雑音は一切耳に入らない、ただ問題の意味を追うことに集中する。これは自己訓練で、掴む、一旦勉強始めたら、集中する、もう雑音、雑念は、一切無視する。一つのことに全神経を集中させる。これは練習です。そう習慣づける。だから訓練です。一旦勉強を開始したら、もう何があっても意識を集中させる。最初は、うまくいかなくても、とにかく諦めずに、練習を続けることです。
勉強の方法というものがあれば、それは、集中のきっかけ、入口を、作ること、そして一旦集中したら、もう何があっても、意識を集中させる、これです。これが勉強の極意です。勉強の極意などというものは、実は、あたりまえのことです。特に、方法論などと言って本を出すようなものではない。ましてや自分の天才を棚において、語ることでもない。
かつて私の高校時代のT先輩は、線路端に家があって、列車が通るたびに、家がガタガタと揺れ、それは大変な轟音だった。担任のK先生が、家庭訪問で家を訪ねたとき、何度か、列車が通過し、家が揺れた。K先生は、「君は、この音が気にならないのか」と尋ねたら、「勉強しているときは、何も聞こえません」と言った、という。T先輩は、東大法に現役で合格、司法試験も在学中に合格し、有名な公害訴訟も手がけてた人だ。T先輩は、二年先輩で、母校では、伝説の人だった。
ちなみに、K先生は、高校3年の時の数学の先生でしたが、教え方は、わかりやすいと思ったことはありますが、昔気質の老人で、この先生には、数学の教科書は教えられても、入試問題は、解けないのではないか、とわたしは懐疑的でした。
高校卒業後、退職した先生が、街の居酒屋で、一人寂しく呑んでいるのを見たことがありますが、それから、まもなく他界したと噂に聞きました。わたしは何度か数学を習いに自宅に行ったことがありました。座敷の座卓に6人の生徒が座り、先生は、問題プリントを配り、声を出して、iの2乗イコール-1などと唱える。するとわたしたちは、一斉に、ノートにそれを書き写す。今考えるとなんとも奇妙な方法でした。T先輩の話は、K先生の持ちネタでした。わたしは、高校卒業後、T先輩に、一度だけ、電話でしたが、話しをしたことがあります。鶴高の後輩だ、と言ったら、いろいろとアドバイスをしていただきました。
さて、話しは、横道に逸れましたが、あがるとか、焦るという心理は、もちろん実力に不安があるときの、一つの症状でありますが、そういう時も、今できることに全力を集中する、実力以上のことをやろうとは思わない、時間内に全部解こうなどと思い上がらない、自分の実力に見合っただけ解けばいい、難しい時はさっさと諦める、自分の能力の上の問題で、時間を潰さない、自分が解ける、そしてみんなが解ける問題を決して落とさない、そういう落ち穂拾いの地道な解き方で、得点を拾っていくことです。そして、合格最低点より、僅かでも、上にある、こういう姿勢、スタンスであればいいと思います。
かつて、「難しい問題は解かなくてもいい」と言ったら、明らかに、4割にも満たない問題だけ解いて、他の問題は全く解かなかったという子がいて、「先生の言う通りに、やりました」と報告してきたときには、「嘘でしょ」と慌てました。合格最低ラインというのは、おそらく50%より上、60%まではいかない、その間にあるのかと思料しております。適性IIで、小石川で、26点で受かった子もいますし、富士にも28点で合格という子がいました。これは最低ラインの話しです。合格というのは、やはり60%前後が、ひとつの目安になろうかとは思いますが、ただ九段は、問題が、易しいので、70%目安と見ています。
落ち着くというのは、自分の実力を見切ることです。そして実力以上を求めないことです。解ける問題を、落ち穂拾いの気持ちで、拾っていく、それでいいのだと思います。
🔵死ねば浮かぶ
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
この言葉は、今テレビ放映中の「まんぷく」のモデルである、日清製粉の創業者安藤百福氏の言葉として、ある本に、紹介されていました、
「死ねは浮かぶ」というのは、人間、死んだら、川に浮かぶ、ということで、川の中で、溺れて、もがいている、つまり生きようとすると、沈むばかりというのと裏腹の意味合いなのかな、と思いますが、それをもって「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」ということを言いたかったのだとしたら、わかりやすいが、死んではだめでしょ、と突っ込みたくなります。
わたしはこのブログで、子どもたちに、本番に際しての心構えとして、「開き直り」という、精神のありようの効用を説いております。もうだめだ、と思ったときに、生と死の分岐点は、やはり精神のありようにかかっているように思います。全豪オープンの女子決勝は、絶体絶命とタフな精神の鬩ぎ合いでした。絶対にあきらめない、最後まであきらめない、生と死の境は、強い精神が生をつかみ、諦めたら死、という裁きが待っている。
絶体絶命の場面で、身を捨てるというのは、死中に活を求めるということ、もしかしたら死ぬかもしない、しかし、そういう危険に身をさらさなければ勝ちの見込みはない、だから賭けである。しかし、賭けをしなければ、100%死しかない。だから命賭け、いや命懸けである。