2019.01.23
本番まで 11日 初日不算入本番の日まで
おはようございます。朝6時過ぎはまだ外は暗い。郷里の大分に帰るときは、いつも6時には家を出て羽田まで1時間、8時発の日航を使う。途中夜が白む頃、この瞬間がまた特別の感覚を呼び起こす。それは受験の前の日の朝、やはりまだ暗いうちに起きて、祖母と母が作ってくれた味噌汁とご飯を食べて、弁当もらって、別府駅から博多に向かう。このときも夜の白む頃。博多で父の取ってくれた国鉄の寮(国鉄直営の旅館)に泊まり、明日から3日間に渡る入試に備える。入試の日の朝も夜の白む頃、旅館を出て、路面電車で試験のある六本松へと向かう。夜の白む時刻はわたしには思いがある。今日も青い空が広がり、太陽が眩しい。
🔵わたしにはこの道しかない
昭和60年10月のことであった。竹の会を始めたのは。9月に代々木中の中2名簿を借りて、ガリ版刷りの手製DMを作り投函した。そしたら中2の女子のお母さん三人組が、問い合わせてきた。面談して翌日に「お願いします」の電話があった。あの当時は、まだ、机もイスも揃ってなくて、マンションの狭い一室を教室にして、教材も何もなかった、全くのゼロからのスタートだった。私が持っていたのは、開成と武蔵の過去問集2冊だけだった。中1から中3までの数学と英語の教科書を買ってきてひたすら読んだ記憶がある。授業は、2時間、週2回としたが、様々な新事態に慌てながら、毎日が、勉強であった。週2回だったので、十分予習して、授業できた。教材は、教科書と市販の問題集を必要なところだけコピーして使った。あの当時から、計算はよく訓練した。駿台のスキル問題集と「佐藤の数学」はよく利用した。授業が、評判で、たちまち生徒が増えて、週2コースを増やした。受験は、過去問をコピーして、使った、生徒に解かせて、採点して、わからなかった問題は、私が解いて解法を示した。この方法は、都内の偏差値70の高校の全過去問10年分から始めて、結局偏差値60、55、45とほぼ網羅的に解き尽くすことになった。いつしかわたしは高校入試の問題にかなり詳しくなっていた。数学はよかったが、英語は、当時流行っていた英語塾が、多々あり、竹の会には、数学だけという生徒がよくきて、腐ったものである。英語の充実は、竹の会における焦眉の急であった。わたしは、市販の参考書、問題集を何十冊も買い込んで片っ端から読んだ。大久保にあった教科書会社に足を運び、高校指導のための英語教材を西北出版が出していたのが、気に入り、何万円分も買い込み読み込んだ。さらにプログレス英語教材を取り寄せ、読んだ。一通り読み終わってから、わたしは満を持して、竹の会の最初の英語テキスト「初版英語指導案」の執筆を始めた。東芝のワープロ専用機ルポを使った。ワープロ専用機は、NECのものを数台は潰した。初版英語指導案から、数年経っていよいよ溜まりに溜まった英語の原稿を集大成した「英語指導案三部作」の執筆に入った。青山学院中等部で使われていた英語プリントも参考にした。もちろん英語過去問もふんだんにとりいれたものとなった。
平成元年当時は、新中学問題集を使ったこともあった。この経験が、竹の会のオリジナルテキストの完成、自前テキストの完成を強く動機づけた。わたしは、竹の会のオリジナルテキストの執筆にすべてを捧げた。
あの当時は、中学受験の子が来れば、過去問集を片っ端から買い込み解き尽くす、大学受験の生徒が来れば、数学の参考書、英語の参考書を買い込み、勉強に没頭する、とにかくどんな仕事でも引き受けた。勉強と執筆にあっという間に一年が過ぎた。毎年高校入試の試練を潜り抜け私は成長していった。オール1の子、自閉症の子、発達障害の子、不登校の子、不良、傷つきやすい内面がナイーブな子、とにかくどんな子でも見てきた。私は、「教える」技術を磨いてきた。教えるというのが、人間の内面とのやりとりにかかるということを私は学んできた。私の授業は、とても人気だった。「わかりやすい」というものが多かったが、「楽しい」「面白い」という子も多かった。
鈴木君が、早稲田実業高校に受かったのは、平成10年の2月のことだったが、平成9年には、授業をやって、過去問を解かせるというやり方だったと思う。オリジナルテキストはもちろん授業の核であった。
竹の会は、一年毎に進化してきた。毎年の高校入試を乗り越えて成長してきた。平成18年4月公立中高一貫校の指導を始めたとき、竹の会は、竹の会の生きる道を見つけたのかもしれない。多くの、割合のできない小学生のいることを知って私の生きる道は自ずと定まった。割合を普通の小学生の頭にどう組み込むか、私の闘いは始まった。明けても暮れてもいつもそのことが頭から離れなかった。アイデアが浮かべば、すぐレジュメに図化して、実際に、試した。わたしは、夥しいる数の案をかいた。平成20年、21年は、試作レジュメの制作と過去問合格法に明け暮れた。20年は、桜修感に1名合格。21年は、受検者なし。22年に、両国と桜修館に各1名が合格した。過去問合格法恐るべしである。22年の桜修館合格者は、6年後に京都大学法学部に合格することになる、9.11の時の遺児、杉山太一君である。竹の会が、レジュメを完成させるには、あと2年の歳月が必要であった。平成22年は、ワード版「適性虎の巻」が、主軸となったが、過去問合格法は、もちろん核であった。平成23年、小石川と桜修館に合格した。23年に指導した、算数の得意な子2人から、22年制作のあるレジュメが、素晴らしかったという感想が耳に入って、気になって、調べた。それが、ミクロとマクロによる割合の解析法だった。わたしは、このアイデアに研究対象を絞り、さらなる進化を遂げた、新割合指導法を遂に完成させることができた。今、竹の会では、あたりまえのように子どもたちが、使っているミクロマクロである。算数のレジュメも整備されて、さまざまなレジュメ集となった。平成24年私はいよいよ、レジュメ指導のためのレジュメの執筆に入った。最初は、この年から始めた入会試験の問題を作るためだった。それが、レジュメとしてシリーズ化した。「竹の会入会テスト」シリーズである。レジュメで取り上げた問題は、150にも及んだ。詳細な解説とカラーの図を駆使した、素晴らしい作品になった。その年の9月からは、「合格答案への道」と「算数をクリアーにする」の執筆開始。指導と並行して、執筆した。翌年(25年)、小石川、白鷗、桜修館に合格。26年は、何を狂ったか、新レジュメの制作だけにしていればよかったのに、22年に使った「適性虎の巻」を復活使用して、子どもたちを迷わせた。完全にわたしの指導ミスだった。白鷗は補欠だったが結局ダメ、桜修館もダメ、最悪な年になった。桜修館を落ちた子は、三年後日比谷高校に合格している。優秀な子だったのに。これに懲りて、新作レジュメの制作、執筆に専念するようになった。27年に集まった子たちが、28年に、開花したが、27から28年には、生徒が、2人きただけで、廃業の危機に陥った。この時、きた子たちが、29年受験組みで、合格者ゼロという、最悪の年になった。
わたしも、齢を重ねて、いつ廃業するのか、そういうことを考えるほどに、気力と体力の衰えを実感する日々である。もう少し頑張ろう、もう一年だけ頑張ろうと年が明けるたびに決意を重ねてきた。毎年毎年が、勝負であった。
竹の会を始めた頃は、父もいた。母もいた。今は、もう父もいない母もいない。竹の会をやる心の支えが消えて、体から力が抜けていく。子どもたちを無心に指導する、することで忘れる、そういう日を過ごしできた。
今年ももうすぐ卒業して行く子どもたち、そのときが来たらまた考えよう、どうするか考えよう、
わたしは、この道の案内人。途中で、迷うことのないように、そして最後は、子どもたちが自分で歩けるようになる、それまでは、子どもたちの手を引いて、この道の何たるかを教えてゆく。子どもたちが、この道の何たるかを悟るとき、その時がきたら、子どもたちは、もう心配ない。それまでは、この道のことを語らなければならない。この道は、見えない道、あなたたちには、勉強の道とでも呼びましょうか。わたしには、その道は、子どもたちを導く道、手を離せば道から外れて行く子も出るでしょう。自らこの道を嫌って飛び出る子もいるでしょう。だからわたしの仕事は、この道を歩きたいという子だけを送り届ける仕事です。勉強の道は、最初は、手探りで、探す道、心だけが、勉強したいという心だけが、その道の在処を教えてくれる。この道は、最後には、子どもたちだけで歩く道。わたしの手助けがもういらなくなったら、わたしの仕事は終わりです。逞しく育った子どもたちが、少しの迷いもなく勉強する姿を見届けて、わたしの仕事は、終わりです。それがわたしの歩く道だとこの歳になって思うようになりました。
この道を黙々と歩いて進む子なら、いいのです。歩いてさえいれば、いつかこの道、勉強の道の何たるかを悟る、気づく時がきっとくる。問題は、道に興味のない子たち、この道よりも、楽な道、誰でも何の努力なしに、休める道、そういう道に逃げ込む子たちです。その道は未来のない道、未来の見えない道です。勉強の道には、あなたたちが、楽をして楽しいというのと違う楽しさがある。その楽しさは、例えば、算数の問題が解けたときの、心地よさのことです。楽をして怠けて知る楽しさとは、違う楽しさです。あなたたちを正しい道に案内してくれるのは、あなたたちが、努力してしか得られない楽しさです。簡単に手に入る楽しさは、あなたたちの未来を食べ尽くす、あなたたちの天敵ということに早く気がついてください。
習い事、楽しいですか。稽古事、楽しいですか。サッカー楽しいですか。確かに、これらには、達成感を伴う楽しさがあります。体を使い、技量を高める。現実的な、勝ち負けを楽しむゲーム感も楽しさを助長します。が、この道は、あなたたちの未来を捕食している反面があることをその楽しさの故にあなたたちは悟らない。ただこの道は、あなたたちが、その道を歩むと決めたなら、例えば、職人の道、芸事の道、サッカーを職業とする道、それならば、その道で喰っていけるまでその道に付き合いきれれば、捕食はされない。もし途中で放り出したり、続けられない障碍が出ればたちまち捕食される、そういう道です。
刹那的楽しさは、あなたたちの人生を捕食する。麻薬が、体をボロボロにするように、精神をボロボロにする。ゲームに時間を浪費すれば、ゲームは、あなたたちの貴重な時間を喰い尽くす。それはあなたたちの未来を捕食しているにほかならない。
あなたたちが、努力して初めて手に入れられる楽しさこそが、あなたたちを幸福な未来に導く栄養となる。わたしはそのことを知っている。だから、わたしは、この道の道案内人なんです。
もう疲れて、体力もない、心の支えも失って、どうしていいのか、わからない。ただ喜びは、子どもたちが、真の楽しさを手にして、歩き出したこと、今は、この仕事を続ける、唯一の理由かもしれない。わたしの気力と体力が続きますように。
初版英語指導案
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