2022.06.14
◎インプットとアウトプットの研究
アウトプットとはなにか?
演繹と帰納の概念について
えんえき【演繹】
(名)スル
〔朱熹「中庸章句序」の「更互演繹、作為二此書一」より〕
①諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。普通、一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。演繹的推理。⇔帰納。
②一つの事柄から、他の事柄に意義をおしひろめて述べること。「他の事象にも━して述べる」
きのう【帰納】
(名)スル
①個々の特殊な事実や命題の集まりからそこに共通する性質や関係を取り出し、一般的な命題や法則を導き出すこと。⇔演繹。
②反切によって漢字の音を導き出すこと。〔西周「百学連環」(1870~71年)で英語のinductionを「帰納の法」と訳した〕
勉強はひたすらインプットに徹すること、これは間違いない。しかし、7回も読むと、いろいろ疑念が生まれてくる。「なぜ」が生まれる。そういうところを考える、これはもうアウトプットの領域になる。ただ読む、意味をとる、そこから、どうしても意味のわからないところが出てくる。どうして? なぜ? この問いに 反転した時から、アウトプットになる。
問いを発するというのは、アウトプットということなのだ。
なにも問題集やることが、アウトプットの唯一の方法なわけではない。
時間の節約は、受験勉強の鉄則だ。時間をカネで買うというのも戦略的には有力な方法なのだ。他人が「時間をかけて」まとめたものをカネで買う、というのは、時間を買っているわけだ。
司法試験の私的団体に、中央大学の真法会という有名な団体がある。1980年代には、向江会長という方が、トップだった。あの当時は、根性野球のような指導訓を垂れていた。なんとも非合理な方法が受験生に喧伝されていた。なんの具体的な方法も示されなかった。2000年前後、日本司法学院という司法書士専門の指導団体が高いカネをとって、隆盛を極めていた。とにかく合格者出していたからだ。今思うと、あそこでやらなければならないという量は、かなり無駄なことをやらせていた、と思う。今は、予備校も多角化して、ありとあらゆる資格試験を扱い、より合理的な方法を提供するようになった。ただし、カネはかなりかかる。日本司法学院は、個人商店みたいな商法だった。だからいつのまにか消えてしまった。今、資格試験の予備校は、多角化、企業化が進み、カネのかかる講座に、質の高いテキストをセットで売る商法に変わった。いやテキスト勝負なのだと思う。
アウトプットと「問い」
問いとは、アウトプットである。とすれば、問いの質がアウトプットの質を左右する。鋭い問いが、質のいいアウトプットとなる。読むという行為は、文章の中に、なぜそうなるの、という間隙を見つけて、鋭い問い、矛盾を突くことではないか。本質を捉えた問いが、その人の理解のレベルを決める。
指導する側からは、重要知識を理解しているか、関係性を理解しているか、が常に、関心の対象である。
算数の指導では勘違いした子が出てくる。テキストを終わらせれば、力がそれに比例してついていくのだ、と誤解しているのだ。それで1つの問題にじっくりと取り組むことをしないで、あれこれと解けそうな問題に手を出す。もっとも脳をはたらかせなければならない問題はほとんど時間も脳も使わない。
伸びない子のひとつの徴表として、算数を考えるのに、図を使って考えるということができないのか、とにかく図のない、計算だけの答案しか書かないことだ。式に単位もつけないから、何をどういう意図で計算しているのかも、わかっているのは本人だけである。図というのは、実は難しい。問題事実の意味するところを、誤解なく、過不足なく、図に表すのだから、脳はフル回転しなければならない。図に表しても、そこから何の解決の糸口も見つけられないような図をかく子が多い。問題の読取りですでに不十分、不正確なことがわかる。