2021.11.06
カリキュラムで単元を教えるバカ塾全盛時代
一芸は百芸に通ず!
大手塾、進学塾というのは、いや巷の塾も含めて、予め定められたカリキュラムにしたがって授業を進める。カリキュラムには、オプションとしての季節講習と特別講座のようなものも組み込まれている。オプションにはオプションのカリキュラムがある。それぞれにそれ用のテキストが用意されて、講師はテキストのその日のノルマをこなしながら授業を進めていく。テキストは、単元で区切られ、カリキュラムはこの単元を単位に授業の駒数が割り振られる。 つまり、このカリキュラム方式は、知能の高い、いわゆる天才、秀才を想定したものだ。
例えば、割合の単元で躓いても躓くのは凡才以下であり、それは切り捨てていくだけである。難関校合格のために敷いたレールの上を淀みなく進めるのがカリキュラムを定めたそもそもの目的なのだから。悩ましいのは、秀才ラインギリギリの子たち、少し足りないという子たちである。彼らは学校ではおそらくトップクラスの秀才、優等生とされていることであろう。しかし、進学塾では、できない層に分類される。大手の経営方針としては、そういう限界児童生徒を頑張れば合格すると煽り取り込むのが、利に敵うのである。 私から見れば落ちこぼれ予備軍である。 そもそも単元方式には、重要な欠陥がある。すべての単元を平均化して授業を行うのは完全に無駄である。 例えば、割合も一つの単元として、平均的な時間を割り当てるのだ。天才、秀才にとってはそれでもいい。彼らの知能はたちまち割合の本質を理解し、様々な応用問題にも対応していくことであろう。しかし、大多数の凡人にとってはそうはならない。高々4ページほどの単元で割合を学んだといっても、それを使いこなす子などほとんどいまい。「わからない」という脳の状態は甚だよろしくない。失敗体験は新たな単元に大きく影響を及ぼす。 考えることを大切にする塾ということを看板に掲げる塾もよくある。これが問題を与えていつまでも考えさせる、すぐには教えない、という趣旨なのか。 問題を与えて、解けるまで考えろ、というわけである。ここでは、考えるという精神作用の中身は個人の問題として無視される。ただもっと考えろ、考えなければだめだ、体育会系的思考と言われてもしかたない。
私が提唱する「考える」指導とは、思考の芽を伸ばし、育てるというコンセプトが基底にある。 具体的に述べてみる。 思考の芽はどうすれば芽生えるか。
思考は計算で種蒔き 計算の妙味
数とは抽象化の第一歩 小数のかけ算、わり算では、小数を10倍、100倍、…して、整数にしてから計算する、そしてその結果を÷10、÷100、…する。 これはなかなかの抽象度の高い思考であり、脳の刺激という面から見れば、思考の芽を刺激するに十分である。 思考とは、脳の働かすことである。小数のわり算で余りのある場合の処理では抽象度の高い処理が求められる。 分数の繰り上がり、繰り下がり、通分、計算の順番、小数を分数にする、カッコの役割、など様々な抽象度の高い脳の働きが 繰り広げられる。 これが逆算に進むとさらに複雑な、抽象度の高い操作が求められる。だからここで手間取る子も少なからずいる。 こうしてかなり高度な計算をこなせるようになる、正確でかつ短い時間で処理できるようになる、ここで思考の小さな芽が芽吹き始める。
ここで私は割合に特化した思考様式を鍛えることにした。大手のように単元で多くて数回で終わらせるのではない。割合の概念を脳の中に構造化していくのだ。そこで私が開発したのが、ミクロマクロ法であった。子どもたちに一つの思考の型、枠組みを与えたのだ。 子どもたちは、様々な割合の問題をミクロとマクロの視点で、視覚化し、構造化し、ここで考えるという型を身につけていくのである。わたしは、割合を2年やるためには、やはり小2から来るのがいいと見ている。これは実際に、竹の会に小2から来た子が、小4ですでに高度な割合算数をこなしているという事実からである。竹の会では、小5や小6に来た、比較的能力の高い子でも、この小2からきた2年目の小4の実力に遠く及ばないという事態が普通にあるのだ。 割合算数をものにするには、2年は必要だということである。 割合算数といっても、割合だけをやっているわけではない。割合を起点として、速さの問題、流水の問題、縮尺などありとあらゆる問題を考えるようになるのだ。 少なくとも小5では遅い。多くの小6前後に来た子たちが、早くから竹の会に来なかったことを悔やむのも竹の会では通例のことである。 ただ小6からだとだめだということではない。小6から来て合格した子もそれなりにいる。しかし、小6から来た子たちは、薄氷を踏む思いであったことであろう。なにしろ周りを見渡せば低学年が自分より遥かに上の問題を解いているのだから、遅れを意識しない者はいない。だから頑張ったという小6も少なからずいた。
竹の会で思考力を開発し、思考力をつける、と言ってもすべての子が成功するということではない。悲しいかな、人は持って生まれた能力の量からの制約がある。これは努力ではどうにもならない。そういう子も時間を何倍もかければそれなりのものにはなるが、決して受検レベルになることはない。 合格可能性を10段階で表して、4というときは、受からないが、5ならもしかしたらがあるかもしれない。 しかし、これは大原の模試では測れない。7、8の者が軒並み落ちているからだ。というか、この落ちた子たちは、私から見れば、力不足であったというか、努力不足であったと思う。したがって、あくまでも私の実感に基づく合格可能性だと言うしかない。
こんな子が落ちる‼️
毎回の指導レジュメで不合格(はんこ)を取る率が高い者は受かることはないであろう。 私が「この子は受かる」と確信するのは、私のレジュメでコンスタントに合格を取る子である。ミス、勘違い、読み違い、誤読、指示を守れない、そういう子は何度注意しても変わらないのであり、合格からは程遠いところにいる。 特に、文章の意味するところをきちんと読み取れない子は、そもそも受検などする能力などないと思う。 それでも受検するというのは勝手だが。
こうして、カリキュラムを敷く塾が一般の東京では、夥しい数の落ちこぼれが出ることであろう。 東京の親は能天気なのか、自分の子が落ちこぼれていることさえも気がつかない。かつて見学に来たある母親は、自分の子は大手で問題なくやれてると私に言っていたが、それならなんで竹の会に見学に来たのか。そもそも大手は小5まで易しいレベルでやってできてると思わせて時を稼ぐということをやる。商売が上手いのだ。 大手に行っているという子のほとんどは、竹の会では箸にも棒にもかからないだろう。 あなたたちは、塾というものがわかっていないのだ。本物の塾というものがわかっていない。 竹の会に来ている子、親御さんは、竹の会をすでに十分知っている、だから塾とはどういうものかよく知っている。大手のような塾を塾とは思わないか、全く評価しないか、ではないか。わが子を通して塾のなんたるかを知ったのである。