2019.12.31
第48章 コントロールの外にある子の指導不可能性について
高校入試の陥穽~ただし東京都23区
わたしの知らないところで、知らない参考書をやる、これはわたしの想定しないことだ。自己流で破滅する型の子というのは、昔はよくいたと記憶している。平成5年前後だったか、真面目で、よく勉強する男子生徒がいた。しかし、わたしは、中3というのに、彼の情報を何も持ち合わせていなかった。学校の成績は決して見せてくれる、ことはなかった。何度か提出するように言ったが、困った顔をするばかりで埓があかなかった。当時は、今のV模擬も、W合格模擬も、業者テストと言われて、学内で実施されていた。だから生徒の成績情報は、学校の先生が専有していた。もちろん生徒には模試結果は渡される。塾の先生には、生徒が自主的に提出しない限り何もわからない仕組みになっていた。だからわたしはその生徒の情報を何も持ち合わせていなかった。彼は模試どころか、志望校までわたしに明かさなかった。問題が生じたのは、都立発表の日だった。落ちたのだ。都立目黒だった。わたしはそもそもどこを受けたのか全く承知していなかった。その日に母親から相談の電話があり、対応に苦慮した。確か、グループ合格の時代であったが、結局救われたのか、記憶はおぼろげである。もしかしたら私立に行ったのかもしれない。彼は過去問も家で母親がやっていたようである。まるで鎖国時代のようで、情報は全く伝わってこなかった。
正直、竹の会は、わたしは、彼のことを何も知らないし、わたしが、指示して何かをやったということはない。ただ当時の竹の会の指導を彼なりに利用してそれなりの成績は収めていた、ということではなかったか。何もかも自分の責任で進めて、塾の先生には、一切秘密にして、受験したということである。
断っておくが、こういう生徒はごく稀で、程度の差はあるが、少なくとも志望校や、学校の成績や模試の結果は普通は報告してくれていた。実は、この報告をすべて口頭で「だいたい何点」みたいな報告で済ませていた女子がいて、都立目黒を落ちている。彼女は、渡された過去問を自分だけで解いていなかったという疑いもあった。
わたしの記憶では、これ以外で少なくともわたしの承諾のもとに志望校を決めて、都立を落ちた生徒は、最近では、都立小山台に落ちた一人がいるだけである。この女子は、部活で勉強時間が少な過ぎたことが一番の敗因であったと思う。なにしろ中3になっても夏過ぎまで練習と試合に駆り出されていた。部活の顧問の先生に明らかに恫喝されていた。部活をやめれば内申は覚悟しとけ、みたいな圧力があった。なのにその顧問は体育の内申を最低につけたらしい。ふざけた話しである。
わたしが、残念に思うのは、将来の道を捨ててまで、犠牲にしてまで、どうしてそんなに部活に時間とエネルギーを注ぐのか、ということである。平成一桁時代の生徒には、親も一心同体に、部活命の子たちがいっぱいいた。そういう子たちが、都立を棒に振り、劣悪な私立に行くというのが、わたしにはどうしても理解不能であった。なんで部活如きで、未来を棒に振れるのか、わたしには、さっぱりわからなかった。あんなに命をかけた部活なのに、高校に入るとあっさりやめている子がほとんどで、わたしは、親も部活最優先の旗振りをして、なんとも理解のできない人たちであった。
高校受験で竹の会の指導を受ける子たちには、竹の会で成功するには、何もかも包み隠さず報告するという姿勢がなければ失敗するということをまず知っておいてほしい。わたしがあなたたちの学校での成績を知らないというのは将来を見た指導ができないということである。何も報告しないことに慣れてくるともう自分の世界だけで完結してしまい、閉塞的、閉鎖的世界で、他からは何の干渉もされない、心地よさだけが、心の安寧をもたらす。自分を曝け出すことで、自尊心を傷つけられることもない。怖いのはこの心地よさから、いつか出る、出なければならないタイミングを逃す、ことが往々にしてあることである。模試でさえもともすれば先送りし、時期を逸することしばしばである。忘れてはならないのは、あなたたちは、竹の会の塾生であるということである。竹の会を、わたしを信頼し、わたしに道案内を委託したということである。このことを忘れて、竹の会をただ自分の都合のいいように利用するという姿勢を貫くのは、あなたたちにとって自滅、ほとんど99%、自滅への道を進んでいるということである。あなたたちは、自分の判断を持ち込んではならない。あなたたちには、高校入試というものが、どういうものか、見えていないし、わかっていない。怖いのは、いろいろな学校説明会に出て情報を詰め込んだ母親たちが、口出ししてくることである。わたしからすれば余計なことをするのである。端的に、邪魔をする、のである。よくやるのが、過去問を買ってきて、家庭でやらせることである。生徒もどういう意図なのか、早くから過去問をやる。過去問で力を試すなら、11月以降であろう。早くから過去問をやってどんな問題が出るのか、慣れておきたい、とでも思っているのであろうか。それともレベルを知っておきたかったのか。わたしが、過去問を使って力を測りたいというとき、最近は、ほとんどが、勝手に、終わらせている。わたしに相談することがない。また過去問を やった結果、どうだったかという報告もない。
わたしが知りたいのは、その生徒の真の力であり、その域である。わたしは、本番を想定して、細かに、生徒の力の域を測りたい、そして適切な対応策を打ちたい、そう考えているだけである。わたしは、高校入試のプロである。あなたたちは、その意味がわかっていない。わたしにすべての情報を開示しなければならないのは、わたしが、あなたたちを合格へ導くために、必要だからである。あなたたちが、自分の成績を隠すこと、それは、自分の判断で、自分の責任で、受験を遂行しようということにほかならない、ことを当然に知っておかなければなりません。
コントロール外にあるとは
これも中学生に多いのですが、せっかく竹の会に来ても、指示されたレジュメをほとんど出さなくなる中学生がいます。行ったきりで帰ってこない。これは竹の会では一番悪いパターンで、指導は中断したまま、その状態が一か月、2か月3か月と続きます。このような中学生は、十中八九成績が下がっていきますから、退塾という選択しかないことになります。中学生が、落ちる、勉強しなくなる、それは、その行動に顕著に表われるものです。例えば、服装が何か派手になる、スマホばかりいじっている、勉強に集中しなくなる、すぐ居眠りを始める、要するに、生活が乱れてくる。間接的に耳に入ってくるのは、恋愛話しだったり、部活の話しだったり、とにかく勉強に集中していない。正直中学生というのは、大半がこのパターンで自滅、崩壊していく。
竹の会で中学生がやめざるを得なくなるパターンはだいたいこれです。
中学生というのは、もう親の支配力が完全には及ばなくなってきている時期です。思春期に入るともう親の意見は自分に対する干渉として、反発しかないのです。親の苦労した経験から心配してやっても、子はそれは親が能力がないせいだと本気で信じる。何を言ってもこの時期の子どもには無理です。歳を取って現実を見るまでわからない。しかし、その時は時すでに遅しですけどね。
この年頃の子は、自分の考え、判断が正しいと思いがちである。ほんとうに賢い子は、経験浅い自分の考えより経験のある指導者の考えの方がよほどいいと考える。だから無駄なことはしない。指導者の言うことを素直に聞き、自分の頭で余計なことを考えないものである。頭の悪い人間ほど、自分はかなり頭がいいとそれはなかなかの自信家である。どんなに人が心配してアドバイスしても素直に受け入れることのない性分はまるで高年の頑固親父と変わらない。要するに、頭が硬いのである。思考が浅い故に自己の浅はかな考えの危うさに気づく様子はない。だから賢さがない、と言うのである。わたしがバカと呼んでいる由縁である。わたしは賢くない振る舞いをバカと言っているだけである。こういうバカは実は大人にもウヨウヨいる。始末が悪いのはバカは自分のバカを決して悟ることはないことである。
部活で未来の人生を簡単に棒に振るのは、わたしにはどう見ても賢くない振る舞いである。ある親は、中学、高校と勉強だけの人生なんて味気ない、もっと部活など人生を楽しんでもらいたい、というような主旨を我が子の教育方針として、わたしの考えとは相容れない主張をされていた。いやそれは全く自由なわけです。部活を十分楽しんで、推薦で高校に進む、今は少子化で、かつてとは違い、日大系列や専修大系列なんかも入りやすい。だからそういうところには行ける時代である。これは何を意味するか。少子化で日本人の取り合いになるのか、いやそうではあるまい。知能優秀な外国人が、いくらでもいる。日本人だからというだけでそうした外国人の上にいることはまずできまい。これからは外国の秀才たちが流入する。そういうことを踏まえて、とにかくも大学をめざすしかないのである。私立なら早慶MARCHのうち明治、立教、中央、国立なら、旧七帝大、神戸、一橋、東工大、などが、目安となろうか。
社会に出るということは、生存競争の真っ只中に身を置くということである。競争である以上強者と弱者は必ず出る。そしてその割合は、多分2対8である。誰かが、空気の酸素とその他の気体の割合と同じだと言ったけれど、経済学者パーレットが、この2-8法則を唱えたのは、人文科学が自然科学に究極のところでは近似していく予感をさせて興味深い。
わたしは生存競争から落ちこぼれていく人たちを非難しているわけではない。それは近代では政治の問題である。弱者も住みやすい社会にするのは政治の役目である。確かに今は弱者も、社会に物申すことができようになった。しかし、中小企業労働者、非正規雇用、契約社員、ショップ店員、居酒屋店員、コンビニ店員、フリーター、ニート、年金生活老人、パート、日雇い、生活保護者などが、2対8の8の大半を形成するのが現実である。社会は強者のための社会になっている。これは日本の歴史を紐解いて見れば、日本の歴史は強者の驕りと弱者の悲惨であったことは明らかなこととすぐに知れることである。
部活の話しから、かなり広がってしまったが、わたしには、親が子の部活に夢中になって、勉強は二の次で、子どもとともに、部活を目的とするかのような姿勢が理解できない。そういう子の未来を親はどのように見ているのであろうか。少なくとも1%の例外を除いて、そういう生徒は、頭よりも体育が得意な子なのであろう。して見れば、推薦を有利にするためという親子もいるかもしれない。しかし、部活命でやってきた子たちのほとんどが、高校では部活をやめて、かといって駄目な勉強で戦えるわけもなく、低偏差値の私立でくすぶり、なんの目的もなく、高校を卒業して、あるいは途中退学して、社会に吐き出されていくことはご存知の通りである。
私たちは、この世に生を受けたときから、好むと好まざるとに関わらず、生存競争の中で生き抜いていかなければならないのである。過保護の親が、必死で子に辛い思いをさせまいと庇いながら育てても、そのために子が生存競争というものの存在さえも知らないで大人になっても、稀に子が親の力で裕福に生活できたとしても、生存競争そのものは厳然としてあり続ける。さしたるコネも持たない、大多数の人たちは、自らの力で、この世界を生き抜いていくしか方法を持たないのである。
わたしは、生存競争を勝ち抜くために、当面は、財産も何もない人たちが、すがれるのは、勉強だけだという、頗る現実的な理由で、勉強を勧めでいるのです。それは歴史が教えることであります。戦乱の時代は、屈強な人間が、生存に有利だったとしても、やがて世の中が、平和になると、文治政治が、台頭してくるのは、歴史の教える通りである。文治政治では文官が重用される。平和が続けば、剣の優れた武士も役に立たない。学問が、生存競争を生き抜く最良の手段であることは、古今東西変わることがない真実であったのである。
もちろん生存には、体が資本であり、体育の必要なことを否定するつもりは毛頭ない。体を鍛えることは、自己の生存の基盤であり、知の根拠である。しかして、私たちは、体育を健全なる程度に維持して、学問に精進し、学問を生存競争を勝ち抜く最良の武器としなければならない、であろう。
こうして、わたしには、親たちが、子の部活に狂気とも思える行動様式が、とても理解できないのである。子の部活に合わせて、曜日と時間帯の合う塾を探すという母親が、部活で疲れて塾ではともすれば居眠りをし、家庭では、塾にやっているのだからと一切勉強をしない態度を認めていれば、定期テストで悪い成績を取るのは当然で、それで塾にクレームをしてくる親がわたしにはとても賢い人には見えないのです。
体育命で、勉強も体育にかけられるだけ時間をかけての余りの時間に勉強をして、トップ都立などに合格して当然という自信一家もいます。親もそれが可能と信じているし、子どももそれが可能と思わせるほどによくできる。こういう親子が、錯覚を起こすのは、中学という、高校入試という、からくりにある。公立中学というのは、中2までは、教科書と授業さえ理解していければ頭のいい子ならトップは当たり前である。しかし、それではだめなのである。トップ都立、私立難関に合格するためには、遅くとも中2の夏前までには、中3までの履修事項を終わらせていなければならないのである。これは、数学と英語について、特に、言えることである。そのことは、例えば、慶應高校の英語の過去問題を見て見ればすぐにわかることである。かなりの長文を短時間に読み取り問いに答えていかなければならない。特に、中学の履修事項は、中3と中2まででは、難易度にかなりの差がある。これはかつての高校数学Iが、中3の履修事項とされてためである。だから、中2まで学年1、2にあるからと学校履修事項だけをやっていては中3になってから間に合わないのである。部活なんか、やってたらなおさらである。こうしてほとんどの中2までの秀才が奈落の底へと脱落していくことになる。これが、中学の見えざる落とし穴なのだ。
多くの親や子がこの錯覚にかかり、転落していくのが、中学なのである。
こういう親や子の判断は、専門家を軽視して、自らの判断を究極的には正しいとして優先したさせるもので、わたしから見れば、最初から失敗は見えている、やはりそうなったか、といつも結果はわたしの想定した通りであっただけのことである。
小学と違い、中学は、高校受験は、指導者の指示にしたがって、その指示に応える努力をするならば、ほとんど失敗のない試験である。
ここで上位の都立を狙える地位にある中学生の陥る陥穽について、触れておかねばなるまい。自己判断家庭の陥る、深刻なジレンマである。
繰り返しておくが、中2までの内申というのは、比較的取りやすいものである。それは先述のように、授業でやるのが、比較的易しい内容の教科書さえマスターしていればよかったからである。中3になるといきなり習う内容が難しくなる。これは以前は高校の内容であったものが下りてきたものだからである。
都立高校の入試問題は、特に、英語、数学に限って言えば、この中3の教科書をマスターしただけでは、対応できない。そして都立の独自問題になると、さらに難しくなり、トップ都立の問題で、50〜70%という合格点を取ることは至難となる。これが私立難関になるとさらに難しいというのが、高校入試の構造である。この構造を踏まえて、わたしは、難関私立を基準にした、攻略プログラムを中学生指導において、おいてきた。ところが、中2まで学校でトップクラスの、特に、女子に多いのが、学校の授業の進行に合わせて、勉強し、トップの位置にある子たちである。中にはあまりにも成績がいいので塾にも行かないという家庭も多い。中2、いや中3になっても、志望校も日比谷、西と平気で言う。しかし、中3になって、先に述べた事情が一気に現実化する。中1、中2の時に、難関私立を基準においた勉強をしてこなかったことの代償を現実で知ることになる。模試で点が取れないのだ。
さて、ここで現在の都立入試の現状を見てみよう。日比谷、西、戸山、青山、そして新宿も独自問題である。内申は高いにこしたことはないが、最低でも39前後がラインになろう。もし39として、本番はそれなりの高得点が必要になることはもちろんである。通常の場合を想定すると、内申は最低43ほしい。その上で、実力あり、というのが、合格の条件になろうか。だから、ここでは、実力勝負になる。模試で点が取れなければ、独自校は諦めるしかない。そこで、すわ、共通問題校のトップ駒場、小山台に切り替えられるか、という問題であるが、実力がないのなら、これは無理である。共通問題というのは、5科目平均90点以上を取る生徒がざらにいる。そうなると内申勝負になる。素内申44、つまり1科目4で、残り8科目はすべて5が最低ラインになる。つまり、駒場クラスは、共通問題程度なら90点取る子たちばかりなので、内申が44以上ないと合格できないということになる。となると、内申40前後の生徒は、実力をつけてトップ都立を狙うか、どうしても都立に行きたいなら、三田、文京、最悪の場合は、目黒、広尾レベルに下げるしかないということになる。
こうして、中2までの学校トップレベルの子たち、中には無塾の子も多いと聞くが、それは要するに、経済的な事情を除けば、自己判断のなすところであるが、親、本人の自己判断の危険性、さらには、素人判断、学校説明会の氾濫する情報を曲解してする泥縄式自己流勉強が、気がつけば、実力相応は、目黒、広尾しか見当たらない、ということになっている。これこそが、都立の陥穽とわたしが呼んでいるものにほかならない。