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デカルトの心

2021.06.23

 

デカルトの心
 デカルト著「方法序説」より
 いいものを求める心、それは向上心に底流があり、それ自身は素晴らしい。
 私もたびたび経験してきたことであるが、一旦決めたことを途中から変えることは、そのためにそれまでにかけてきた時間を全て無駄にすること、さらにこれからまた最初から始めることによるさまざまなコスト負担を考えると、最初に決めたことを貫き通すことがもっともいい選択であったということをデカルトは言っているのです。
 これは、「方法序説」とありますから、もちろん勉強についての提言です。
 私などは、本当に、デカルトの言っていることがよくわかります。
 また大学受験をしていた息子たちの受験時代の勉強をずっと観てきましたが、決して口出しはせず見守ってきました。本番直前になると、受験生の間で評判のいい参考書や出たばかりの参考書を買って来るのです。そんなもの今からやれるわけないのに。
 わたしは、自分が、大学時代司法試験を受けていたときのことを思い出して、それは違うよ、と心の中で叫んでいました。最初に選択した方法を決して変えてはいけない。たとえそれが他の方法に比べてまずいとわかってもだ。
 ※デカルトの言葉(出典 岩波新書ワイド版)
 わたしの第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。この点でわたしは、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった。旅人は、あちらに行き、こちらに行き来して、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一カ所にとどまってもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初におそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、その方が森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。同様に、実生活の行動はしばしば一刻の猶予も許さないのだから、次のことはきわめて確かな真理である。どれがもっとも真なる意見か見分ける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然性の高い意見に従うべきだということ。しかも、われわれがどの意見にいっそう高い蓋然性をみとめるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めたあとはその意見を、実践に関わるかぎり、もはや疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない。われわれにそれを決めさせた理由がそうであるからだ。そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである。(以上引用)

 

 私はもともと性格的に、常にいいものを求める、抑え難い衝動があった。だからいつも飽き足らず、新しいものに目を奪われ、変化を好み、何かもっといいものをと追い求めてきた。
 そのような私の性格は、デカルトの方法とは真逆のもので、おそらくわたしは司法試験のような試験には不向きだったのだろうと思う。
 ただその私も大学受験のときだけは、デカルトの方法そのままだった。
 追い詰められたときの選択、特に、限られた時間の中では、わたしは、自分の選択が唯一の選択にせざるを得なかったのだとおもう。
 時間に恵まれた大学時代、わたしには、最良の選択が、まだある、ほかにある、という観念に定まらない精神に翻弄された。自分が本能的に達したデカルトの境地を忘れてしまったのだ。
 竹の会は、試験ではない、塾である。ここでは、究極の指導を追求することが、求められるている。千差万別の子どもを集合的に扱うことなどとてもできない相談である。だからわたしは、黒板とテキストと授業という、大手方式には根底から疑問を持っていたし、だからといって、個人指導や家庭教師なのかということにも疑問を捨てきれなかった。竹の会の今の指導方法は、長い間、わたしが悩み苦しんできた子どもたちの指導についての究極の結論であった。「考える心」を育てること、主体的に取り組ませること、勉強に気持ちを向けさせること、そういうことを可能にする方法を追求してきた。指導者が導くための、最良の手段は何か、そこからレジュメが生まれた。算数、特に、割合を通して、思考のステージを上げていく方法を発明した。わたしの解説は、ステージ、つまり思考枠組みを確認するところから始まる。問題の直の説明ではない。どう考えるかを求めた。こうしたわたしの指導法の研究は、デカルトの方法とは背馳するものであろうと思う。竹の会は進化する塾であり、変化を内在するところにその存在根拠を見つけるであろう。

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