2023.07.14
🟡自分の子が「さほどでもなかった」と悟る小6の秋🍂
小3ないし小4から、特に、大手塾に通って来た子たちが、いよいよ小6となり、その答えが出るのが9月,初秋の頃です。選んだ塾が正解だったかどうかは、合否を待つまでもない、そもそもの実力が備わったかどうか、であり、その答えが、小6の秋に出る、ということです。
まさか自分の子がまだなにもかも見えない小学低学年の時期に、親の目から見ての話だが,わが子の能力を高く評価する、それを公言する親もいないでしょうが、とにかく多くの場合、大手塾を選ぶのが、ほとんどなのかと思います。
ほとんどの親は、子どもの将来を心配し、あれこれと悩み、子どもを叱咤しながら、子どもを引っ張っていく、それが本当のところなのではないか。最初からこの子はできるなどと公言できるほどの確信などはとてももてないのが普通の親の心境なのではないか。それからの子どもにどのような事態が待ち受けているのか,凡そ想像もできない。もしかしたらいじめに遭って挫折しているかもしれない,もしかしたら勉強よりも別のことに夢を見いだしているかもしれない,さらに何か病気を煩って勉強どころではないかもしれない。子どもの未来のことがすべて自分の手の内にあるなどとても確信できないのが現実なのではなかろうか。将来のことなど具体的にだれが言えようか。子どもの未来など予測もつかない,それが本当のところではないか。
現実にはいろいろな親がいるものだが。
長い間子どもを見て来ると、なんでも対象化、神格化してしまう人間というものがいるものだ。大手塾を対象化、神格化して、自らは最良の決定をしたと思うのはもちろん勝手です。何をやってもその決定の結果は自らが被るのだから一向に構わない。断っておきますが、この人たちは、「決定」をしたのであって、決して「選択」をしたのではない。大手のみを対象化して、迷うことなく、決定したのだ。決して多肢から選択したのではない。頭の構造は、物事を絶対化して捉える、単一の働きしかないようにできている人たちです。わたしが最も苦手とする人たちです。
物事が方法の選択に過ぎないという視点の欠落した、対象化という脳しか持たない人間は、結局、対象化のしっぺ返しを食らうことになる。
さて、小4あたりから大手塾に通いそろそろ小6になって、夏の講習を受けて、9月になれば親の答案の答えは出る。わたしには大手の講習がどんなものになるのか、手に取るようにわかる。おそらく小5までは、平易なテキスト、平易な授業を「受けて」、「よくわかる」と喜んで来たのではないか。ところが、小6になってさすがに、大手も易しい問題ばかりをやるわけにはいかない。少し難しくすると、途端にわからなくなる。だから夏は、このわからない子たちのために、思い切り講習を受けなければならない、と勧められる、ことは目に見えている。実にうまい具合に株式会社大手塾の手の内で転がされたものだ。しかし、それまで段階的に思考を鍛えて来たわけではないつけはたちまち顕現することになろう。大手の模試は易しい。その易しい模試でさえもできないという現実を知ることになる。それが、小6の9月というわけです。
秋へ、と季節は変わる。もうこの頃には、自分の子の能力がどの程度のものか、さすがに我が子に贔屓目の親にもその実像が見えてくるのではなかろうか。
さて、どうですか。
あなたの下した盲目的決定の答えは出ましたか。
大手の2年間ないし3年間で、思ったように成績を伸ばすことができましたか。
わたしは、大半の親は、失望、落胆というものを今この時期に味わっていることだろう、と思っています。大手に3年も通ったのに、普通の割合の問題も解けない、計算をやらせてみたら、時間はかかるわ、殴り書きだわ、結局満足に解けない、そういう姿が目に見えるようです。わたしが会った大手の子たちはみんなそうでしたから私の見立てに大過はないと思います。
この子たちの中には、学校では、模範的優等生という子もたくさんいたことでしょう。普通に訓練してきていたら、それなりにできるようになったかもしれない子たちです。
それから勘違いした親がまだいると思いますから、ここもその判断について、一言ツッコミを入れておきます。
大手の内部テスト、模試でいい成績だから、心配ない、と自信ありげな親もいるからです。だいたいこの自信ありげというのが、落とし所満載ということです。
少なくとも、公立中高一貫校対策の大手塾の模試はどれほどの信頼がおけるのか、正直わたしには不信だらけです。公立中高一貫校対策の統一模試というものがないことが、都立中受検を不透明なものにしています。各大手塾の模試が、レベルも質もバラバラなままに実施されているのが実情です。受けるのは、主としてその塾の生徒が受けることになろうが、こうしてさまざまな塾の主催する模試が、その母数も少なく、結局、推定順位なるものを出してお茶を濁しているわけです。高校入試だと、難関受験者が駿台模試に一斉に集まるからその順位は推定でもなんでもない、実際の志望者ほぼ全数の中の順位である。
模試が信頼できない中での、実力の見極めが肝要ということになってくる。竹の会では、公立中高一貫校スタートの年から受検して来たからこそ、竹の会基準なるものを想定することができた。早稲田進学会の模試の成績が壊滅的に思えても、つまり従来の模試成績ではとても合格は覚束ないという場合であっても、竹の会では合格を出すことができた。前兆はあった。令和3年の桜修館合格者のうち一人は、模試で一度も成績上位者に名前を載せたことがないばかりか、100点未満(300点満点)を2度も記録している。過去の竹の会の合格者を紐解いても100点未満を取った者が合格した例は一例もない。
この合格は奇跡的な合格として整理された。ところが、本年、つまり令和5年には、またまた同じような桜修館合格者が出てしまった。この女子児童は、早稲田進学会の模試で100点未満2回、さらに名前は載ったこともなく、特に、高い点数を取ったこともない。竹の会のレジュメだけで合格したのだ。模試の補強もなく、合格判定の基準は、あげて竹の会の使ったレジュメの正答率のみである。わたしが合否判定に使うレジュメは吟味された、珠玉のレジュメを渾身の力をかけて制作したものではある。
もう一つ、竹の会では、平成22年から一貫して早稲田進学会の模試を受けてきた。今、手元にある同模試の参加者は、小石川模試にして、500人近くいた。ところが現在の参加母数は150人程度ではないか、これは母数としてはもはや合否を判定するにはあまりにも少な過ぎる。往時の早稲田進学会からは見る影もない衰退ぶりである。
それなら大手の模試は、母数が多い分序列を知るには参考になるのか。
正直わたしは信用していない。かつて大手の模試を受けた竹の会の小6がいた。そのときの参加母数は2000人もいてさすがと思わせた。一度だけだが、11月頃の模試だったと思う。そうしたら12番を取った。確かにその小6は早稲田進学会でも名前を上位に載せるほどのできる子であった。しかし、本番は落ちた。ここらで模試の実用性を悟るべきであったのかもしれない。竹の会基準に照らし合わせて見れば、必ずしも合格判定は出せなかっからだ。わたしはもっと自分のレジュメの価値を信じるべきであった。すでにして、わたしのレジュメ製作レベルは遥かな高みにあり、このレジュメだけで合否を何よりも正確に予測できたのだから。
竹の会と大手を天秤にかけて大手に行ったという人もいましたが、さて、3年経って、その答えはどうだったのか。
その答えは、聞くまでもないことてす。
塾にどれだけ幻想を抱いているのか知らないが,自分の子は自分のDNA以上の子だ、とどうして能天気に言い切れるのか,わたしには全くわからないのです。我が子が、できると幻想を抱くのは勝手ですが、だからといって自分の、あるいは、母親のDNA以上のことはないのが普通でしょう。自分が人並みなのに我が子が天才なのか、という、簡単な理屈もわけもなく切り捨てられる。
大手しか信じられないという人の頭の構造は自己の都合で都合の悪いことは捨てて涼しい顔をしている、そういう人たちなのだと理解しています。
結果を見るまで信じない。そういう頭です。
そもそも子どもというのは、将来ものになるのか、小学低学年からわかるはずもない。子どもというのは、その成長の過程は艱難辛苦に満ちた、日々が様々な想定外の障碍をなんとか二人三脚で、切り抜けながら、育っていくものです。困難を乗り越えながら成長していくものです。最初からこの子は頭がいいなどと豪語できる親が、何を言っているのか、わたしには、さっぱりわからないのです。
受検受検と喧しい世の中ですが,子どもには持って生まれた才能の質と量というものがあり,子どもの人生,未来はそれに規定されるのもしかたのないことです。すべての親が等しく受検合格をめざすのは最初から無理な話でした。塾に行けばなんとかなるということはないのです。大手はどんな子だって受け入れます。営利を目的とする株式会社であってみれば当然のことです。大手は営利を基準に動いている。決して子どもの能力,性格などを考えているわけではない。一見考えているように見えてもそれは営利基準からの判断に過ぎない。
子どもというのは,受検をめざす以前に,つけてやらなければならない基礎学力というものがある。これを疎かにして,ひたすら大手の掲げる営利誘導のカリキュラムに乗ってしまっては子どもの未来は間違いなく廃棄処分の運命にある。そもそも受検というのはかなりのリスクのあるかけである。基本を疎かにしたまま受検に失敗してそのまま公立中学に進むとして,基礎学力のない子がどうやって高校入試戦線を乗り切れると言うのか。
高校受験はすでに小学低学年から始まっている。大切なのはなによりも基礎学力であり,決して受検ための上滑りな勉強などではない。計算力を鍛え抜き,割合をとことん勉強する,竹の会なら1年どころか3年もかける割合の勉強である。大手塾だとせいぜい小5あたりのテキストの割合に充てられた1単元4ページほどを勉強して終わりということになる。割合という概念を通して徹底して思考を鍛えていく,竹の会でもっとも重視していることだ。小学の間に,割合の達人たらしめ,勉強する姿勢,つまりは思考の態度を作りあげ,ひいては自ずと勉強習慣を固定化してしまう過程こそが竹の会の狙いであったのだ。竹の会にとって受検はその上にあるおまけにすぎない。何が子どもにとってもっとも大切なのか,そこを見極めてほしい。竹の会は巷の受検云々の皮相なレベルからの根拠もない,なんの事実的裏付けもない批判,非難に晒されてきた。
何が大切か。竹の会の子どもたちが,小6の9月に手にする答えは,思考するということを手に入れた子たちの判断は親の思いを遙かに越えた揺らぐことのない,自信に満ちた判断であろう。驚くべきことは,年端も行かない子がしっかりと自分の意見・判断をすることではないか。