2020.10.30
◎ ニュートン算にみる事実の分析と脳の開発
a1 頭の牛は b1 個の牧場の牧草を c1 日で食べつくす。
a2 頭の牛は b2 個の牧場の牧草を c2 日で食べつくす。
a3 頭の牛は b3 個の牧場の牧草を c3 日で食べつくす。
このとき、a1,a2,a3,b1,b2,b3,c1,c2,c3の間の関係はどうなるか。ただし、各牧場の牧草の量は等しく、また、それぞれの牧場の牧草の 1 日の生長量は一定で、それぞれの牛が 1 日に食べる量も一定であるものとする。
アイザック・ニュートンの数学書「普遍算術」、実は、ニュートンの講義ノートの中にある。1707年に初版が出た。これが、算数の試験でよく出るようになって、ニュートン算と呼ばれるようになった。
算数の鍵第20回所収 都市大
ある牧場で20頭の牛を放すと6日で草がなくなり、15頭の牛を放すと10日で草がなくなります。かの牧場で10頭の牛を放すと( )日で草がなくなります。ただし、草は一定の割合で生え、どの牛も同じ量の草を食べるとします。
この問題の解説は、竹の会発行「面積図で解く算数」などにあります。
最初「図にかく」ということはやるのかと思います。しかし、変数が2つはあるので、どうしても連立方程式風になってしまう。変数2つの積の関係を利用するのが、面積図であるが、わたしの初期の解答は図はかいたが、そこから連立方程式風になってしまった。変数というのは、1日に生える草の量と牛1頭が1日に食べる草の量ですが、もう一つ「日数」があります。それからあと定数があります。「元々あった草の量」です。牛は、「元々あった草」と「その日に生えてくる草」を何頭かで食べるわけです。それが何頭かの牛が1日に食べる量です。
ところで、算数というのは、事実分析の学問です。とにかく事実を分析していく楽しさというのは、あります。算数が楽しいというのは、こうした事実の分析がまるでクイズを解くような感覚のようだからです。
そして算数の面白さは、この事実の分析が、多く図をかくことによって、「繋がる」ことがほとんどだからです。もっともよくみなさんが使うのは、線分図なのかと思いますが、比較する図というのもよくあります。が、最近わたしが気に入っているのは、とにかく面積図を使うことです。とにかくわたしは面積図を使います。わたしの算数は面積図で解く算数と言っても過言ではありません。わたしは面積図に新境地を見ています。それは、事実分析の、更なる実践の中から、ようやく到達しえた、算数の神の啓示であったやもしれません。
子どもたちが「考える」というとき、わたしは、算数を通して、事実の分析というもの会得してほしい、そう願っています。子どもたちが自分なりに分析をした答案を見せてくれるのは、楽しみであり、うれしいことです。「その答えがどうやって出てきたのか」とわたしは思いながら見ているわけです。ところが、式を書かない、図もない、そういう答案ばかりです。「式は?」と聞くと、計算用紙に殴り書きしてどこかに行ってしまったとか、「図は?」と聞くと、「ない」、式に何度言っても「単位は」をつけない。事実の分析が意味を求める脳の働きであってみれば、式に単位がないなど考えられないのだが。私たちは、年齢を言うときは、「何歳」と答える。枚数を尋ねられれば「何枚」と答える。つまり私たちは、個数には、単位をつけて、何の個数なのか、意味を明らかにするではないか。
わたしはよく言う、単位をつけることによって、式の意味を辿りながら理解することができる。それから単位をつけることには、もう一つ重要な意味がある。すなわち、単位だけの計算をすることによって、答えの成否を確認できる。
例えば、
g÷㎝=g/㎝
これは、「グラム」÷㎝の答えが、g/㎝、つまり1㎝あたり何gかを表す。いわゆる単位あたり量である。
一般に、単位の違うもの同士の割り算は、一当たり量を出す計算になる。
単位が同じもの同士の計算は、いわゆる倍率を表す。
それでは、次の計算の意味はどうだろうか。
g÷g/㎝
この式は、g×㎝/g=㎝ になる。だから、gは約分して、それぞれ1となる、つまり消える。この計算の答えにつく単位は㎝とわかる。
時速4kmて3時間歩けば、何km歩いたか、
3時間×4km/時=12km
単位だけ見てみると、
時×km/時
ですから、「時」は約分で消える。つまり、kmだけ残る。巷では、「時間×速さ=距離」と公式にして、覚えさせることをやっているようであるが、距離と時間と速さの関係は、速さの単位を見れば一目瞭然である。
すなわち、km/時 とは、「1時間あたり何km」を表しているが、これは単位あたり量であり、km/時 というのは、分数になっている、すなわち、km÷時間が、速さだ、ということを示している。
あとは簡単、単位でわかる、
km÷km/時 は、時間
わたしは、子どもたちに式には単位をつけなさい、と指導のたびに言うけれど、子どもたちには、単位をつけるものはほとんどいない。単位で考えるようになれは、今よりもずっとわかるようになるのに、とよく思うけれど、わたしの意図は伝わることはない。
事実の深層を読み解く、縺れた糸のように、こんがらがった事実を解きほぐす、これほどの「知の喜び」があろうか。
わたしは、竹の会に来た子どもたちに、この事実を、読み解く、苦難の坩堝で、大いに悩んでいただきたい、そして、この坩堝から這い上がってほしい、そう願っている。
竹の会の子どもたちが、真の思考というものにいつか目覚める日を願って、わたしは、きょとんとした顔、はてなという顔、うつろな目、根拠のない答案に不安な顔、そういう顔を見守っている。竹の会の子どもたちがある日突然に開眼する日、コペルニクス的転回を見せる奇跡の日の到来を待っている。そう、思考を開発するとは、子どもの開眼を待つことしかできない性質のもである。指導とは、毎回少しだけ脳を刺激して、脳の損傷の自力回復を待ち、ニューロンのタフになるのを待つことをいうのかな。