2021.01.07
◎マクロの指導家とミクロの指導家
塾長、竹の会の指導体系を語る
竹の会ができたのが、昭和60年10月のことでした。それまで家庭教師を10人くらい引き受けてやっていたけど、塾は初めてでした。しかも東京のど真ん中で。しかし、わたしには言い知れぬ自信がありました。手書きの葉書を代々木中の2年生と上原中の2年生に出しました。最初代々木中の女子3人のお母さんからの問い合わせがありまして、会って話しをすることになりました。まだ机とかなくて、その手配などで大忙しでした。会って翌日だったか、「お願いしたい」と電話がありまして、それからいろいろ準備したのです。まだ知らなかったのですが、周りにはたくさんの塾があって、そこにいきなり落下傘のように舞い降りたのですよ。中2の3人娘を相手に二週間ほど経った頃、突然電話が毎日のように鳴り響きまして、聞くところによると、代々木中で私の授業が評判になっていることを知りました。噂とは恐ろしいものでたちまち生徒が増えてわたしはびっしりと日程が埋まってしまったのです。あの頃は夜遅くまでよく勉強しました。数学もそうですが、近隣には評判の英語塾が多く、わたしは意地になってとにかく夢中で勉強したものです。
あの頃は、授業をしましたが、やがて過去問を使うようになって生徒に考えさせて解かせる時間が増えていきました。中学は定期テストのたびに親が騒ぎますから、私もなにかと鍛えられたものです。竹の会のオリジナルテキストの執筆にかけたのもその頃です。
過去問合格法と授業の併用でしたけど、次第に授業は減り、解かせることが多くなりました。
レジュメ指導法が生まれるのはまだずっと後のことでした。
平成15年前後だったと思うのです。私がわたしの、竹の会の未来を変えることになる、パソコンソフトに出会ったのは。このソフトがわたしのこれまでの焦燥を一気に解消してくれたのです。
図やグラフを縦横に駆使した教材を作れれば、私の指導したいことを「のみ」指導できるのに。既成のテキストはあまりにも無駄が多い。仕組み、原理を説くにしても迂遠であり、要点のみを的確に伝える教材があれば。個人個人理解の程度も進度も違うのに、均一の教材を使うなんてありえない。十人いたら十の異なる教材が必要であるのに。
わたしは私の作った教材で、一人一人の理解の色を見たいのだ。
輪郭をなさない色もあれば濃淡の明確な色もある。
百聞は一見に如かず、という諺がある。百の説明よりも一度でも実際に見たほうが、「わかる」。これは「教える」、つまり説明する仕事では、そのまま当てはまる。
すなわち「図」である。写真である。グラフである。表である。そして図に挿入されたコメントである。そういうものを自由自在にリアルタイムで作れる。そしてプリントアウトできる。それは私が夢に描いていたことである。大手のテキストを見ながら、いつもとても勝てないと諦めていた。パソコンが普及し始めても、しばらくは事態は変わることもなかった。平成15年、邂逅、夢のソフトととの邂逅であった。わたしは幸運だった。しかし、そのソフトを手に入れても、どこまでわたしの夢が現実となるのか、懐疑的であった。それに手に入れてしまうと安心してしまうところがあり、逆に不安となるのは常のことで、結局NECのノーパソで試作品を作るといった程度で一年ほど引きずった。きっかけとなったのは、ちょうど指導していた小6の女子が都立西をめざすことになったときだった。わたしはこのソフトで竹の会のこれまでに書き溜めてきたプリントや過去問の解説を体系化してレジュメとして再生させようという決意をした。ちょうどその子の成長に合わせて作るという仕事になったからだ。プロというのは何か仕事としてなければなかなか取り掛からないものなのだ。
平成19年高校入試レジュメ化の完成、翌20年その女子は私のレジュメにより都立西に合格、チャレンジした豊島岡女子にも合格。この年は、同じレジュメ指導した男子が立教新座と桐蔭理数に合格、4年後、女子はお茶の水女子大に、男子は東大文IIに合格した。
なぜ高校入試のレジュメから手をつけたか。
原稿があったから。
平成20年当時、私は公立小の子たちの学力のなさに驚愕していた。小6で通分ができない子がたくさんいた。まして割合など理解するものはほとんどいなかった。中学受験の子たちは小4から塾通いしそれなりに洗練されていたと思う。しかし、私の出会った大手塾の子たちのほとんどが公式を使うベタな問題を解けるだけで、ほんとうにできる奴は天才だけだった。もともと地頭がいいだけのことだ。
私はどうしたら公立小の普通の子たちに割合を理解させることができるのか、ほんとうに悩んだ。毎日そのことばかりを考えていた。朝起きたらまず思いついたアイデアをレジュメにする。それから実際に指導に使って、子どもたちの反応を見る。平成20年、21年、22年の3年間は狂ったようにその研究に没頭した。その時に作ったレジュメの量は膨大な量に達する。今、竹の会で使われているレジュメの下地はほとんどがその当時に作ったものだ。23年の指導で、算数の得意な2人の男子が、「先生、あれ良かったですよ、あれで算数がわかりました」と口を揃えて言ったことがある。「えっ、どれ、あのミクロマクロ?」、「そうです」。
わたしはその日、指導を終えるとパソコンに向かい、その例のレジュメを開いていた。それからミクロマクロの新作を夢中で書いていた。わたしは完成したレジュメを感無量で読み直していた。
ようやく見つけた。これだ。これなんだ。わたしが公立小の子たちを救済しようとして日夜考えた、画期的なレジュメ、わたしは遂に辿りついたのだ。
これからの竹の会の中心となるレジュメ、理論の完成だった。
残念なことに翌23年、受かったの富士1人だけ。ミクロマクロの素晴らしさを教えてくれた男子は落ちた。しかし、そのうちの一人は竹の会で3年後に都立戸山に合格し、さらに4年後に一橋大に合格することになる。やはりわたしの指導した、見込んだ子であった。
余談だが、竹の会の卒業生は、中学入学後、高校入学後、成績はトップクラスにいて、一流大、特に、国立大に進学している子が多い。
今年、桜修館に進んだ女子から年賀状をもらった。「阿部先生、お元気ですか。先生のおかげで桜修館に入学できて2年、解き直しや考え方など、先生がつくって下さった勉強の基礎があり、前期は学年6位でした。今になってもまだ、竹の会のありがたさを感じています。」。嬉しいたよりでした。
ほんとうに竹の会の卒業生は一流国立大に進む子が多いんですよね。
レジュメ化に取り残された分野があった
適性問題は23年まで、マイクロソフトのワードを使って製作してきた。しかし、適性問題を読んだことのある人ならわかると思うのですが、とにかく図、写真が多い。図も複雑、算数の図なんですけど。自由自在に図をかいて、図に文字が書ける、これが、私のもっともやりたいことでした。24年1月わたしは竹の会の入会試験の製作に着手した。そうなのだ。竹の会もいよいよ入会試験で生徒を選抜することにしたのだ。試作品であり、かなり力を入れた。後にこのレジュメはシリーズ化し、名称は「竹の会入会テスト」のままに、実は指導用の適性レジュメとして24年だけで300〜400枚を書いた。この年、「算数をクリアーにする」「合格答案への道」が完成した。このレジュメ指導で、翌25年には、小石川、白鷗、桜修館に合格した。5人受けて3人合格でした。
私はようやくレジュメ指導というひとつの指導スタイルに確信を持つことができた。過去問合格法よ、さようなら、長い間、竹の会の実績を出して来れたのは、過去問合格法のおかげでした。テキストも何も持たない、無名の塾が、大手に負けないで、戦って来れたのは、過去問合格法のおかげでした。その戦友過去問合格法と別れるときが遂に来るとは。わたしは、自ら開発したレジュメ指導の体系をこれから極めていけばいいのだ、そう決意しました。
それでも、私は高校入試のプロです。私の指導のノウハウはすべて高校入試から積み重ねられてきたものです。過去問合格法時代の私は、高校入試を鳥瞰し、常に、全体から、生徒一人一人の学力を見てきました。合格という目標から逆算して生徒の具体的指導をどうするかを決めました。だから生徒に何をして欲しいと具体的指示を出す、これに素直に応えてくれる生徒でなければだめでした。私はマクロの指導家であり、またミクロの指導家でありました。
常にマクロの視点から子どもたちを見直して、ミクロの指導を施しました。
竹の会の指導とは、例えば、算数のある問題が解けない、わからないからと、教える、説明する、ようなミクロの指導をもって目的としない。わたしは個人の人格全体を見て、将来この子が考える力を手ににしていくにはどうすればいいのか、つまりマクロの視野を鳥瞰しながら、ミクロの指導のありかたを決める。この子はそもそも問題文をしっかり読んでいるのか、と疑えば、問いの内容を質問する、どういう問題なのか訊いてみる。よく問題文を空で言えるようになったらまた来い、と突き放す。解くために必要な事実整理ができているのか、訊いてみる。そもそもの問題解決のための枠組みがあるのか、最終的にはそこである。わたしはそのために様々なレジュメを書き、鍛錬してきたのだから。子どもの性格ももちろん計算に入れる。わからないということを悪いことだと考える子、気が強くて素直に「できない」と言えない子、認めたがらない子、自尊心が強くて目立ちたがり屋でわかったふりをする子、強く言うとすぐに傷つくガラスの心の子、自信ばかりあってちっともできない子、わたしは様々な問題となる性格を抱えた子に接してきたが、常に目には目を歯には歯をという姿勢で臨んできたのだと思う。
指導者というのは、子どもと喜びや悲しみを共有し、心を通じ合わせなければならないのだと思う。子どものリアルな心情を察して言葉を選ぶ、私はそういう接し方をしてきたと思う。マクロの指導の底流に流れるのは、熱い思いであって、それはわたしの価値観の奔流であったのはわかっている。わたしは子どもたちに勉強することで迷うな、ひたすら勉強することが生きるということなのだよ、と常に心から叫び語りかけてきたと思う。
私の思いが通じなかった親や子はたくさんいた。しかし、心が通じた人たちもいた。それが社会ということであろう。
マクロの指導とは、子どもたちの全人格をとらえて、子どもたちに迷うな、ひたすら勉強しろ、と檄を飛ばしながら、いや励ましながら、時には温かく見守りながら、そしてときには微笑ましく見守り、そして子どもの悲しみを思い遣り、不埒な子どもには厳しく叱る、社会のけじめを教える、そういう情的な面ももちろん包含したものである。ところが甘い親、過保護な親には、それがわからない。
竹の会は、レジュメだけで、合格へ導く、私はそう決意したのであり、そこに迷いはない。わたしは、合格道案内人としての使命を果たす。それは生易しいことではない。毎年毎年過去問集を丁寧に解いて、レジュメの質を更新しなければならない。過去問は受検生の側の視点は当然として、出題者の意図、考えていることを見据えての分析でなければならない。
わたしはできるだけ少ないレジュメで合格レベルの到達を図らなければならない。量よりも質を重んじる。最近の竹の会の合格者たちの入学試験の成績がズバ抜けていいこと、入学後の成績が抜きん出ていること、一流国立大への合格者が多いこと、これらは竹の会のレジュメ指導後において特に顕著である。
竹の会は、小学生に基礎学力を効率よく、つまり短期に培うことでも出色である。小2の夏に竹の会の指導を開始した子の一年後は皆さんの想像を遥かに越えたものであると思う。計算力は、難関中受験者に匹敵するであろう。小2ですよ。割合の理解は中学受験なら芝中レベルを超えている。いいですか、まだ小3ですよ。竹の会で小2の夏に来て、最初は整数の四則、それから小数の四則、四捨五入とか概数なんかをついでに教える。それから通分、繰り上がり、繰り下がり、約分をやって、計算テキストをひたすらやらせる。かなりこなせるようになったのを見計らって、逆算を一気にマスターさせる。それからは、指導のたびに4題解いてから、指導に入る。計算はウォーミングアップみたいなもの。そこからはいよいよ割合の手ほどきに入る。割合の基本概念をこれでもかというほど繰り返す。都合こういう手順なのですが、竹の会の子どもたちはたちまち自信をつけていく。わたしの発明した、割合の枠組みをみな使いこなして、なかなかの達者振りである。
よく他塾に一年なりいた子が竹の会に来て、その親子が思うのが、竹の会の子たちとの学力格差です。よく「これまでの勉強とはなんだったのか、そもそも今までの塾はいったいなんだったのか」と心底悔やんでいるのを目撃しますし、親御さんのメールなどで知ります。みな本当に同じことを言われます。
それから竹の会の勉強に夢中になりますね。賢い子ほどその傾向が顕著です。
竹の会とは、そういう塾です。名もしれぬ、小さな個人塾ですから、たいていは目もくれません。みな迷いなく大手に行く、地元塾に行く人ばかりです。ですから、竹の会を知るのは、通常はありえない奇遇しかない。たまたま入ってその凄さを知る、その幸運を悟る、そういう立ち位置にある塾なのかな、と思っています。