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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

レジュメの再発行について

2022.09.13

 

本を読む、とは、一日一冊のペースで毎日読むことだ‼️
 
 読み取りのできない子たちの増殖についてついて
 算数の力はついてきたと思われるのに、適性問題に手がつけられない、という子が、ここ2、3年目立つようになった。
 そういう子たちの共通した特徴というのが、あるようだ。
 精神年齢が幼児並みということ、いわゆる大人の論理が通じない。それから過保護、甘やかされて育てられた子というのが、そういう傾向が強い、こともわかってきた。キィーワードは、「幼い」と「甘え」である。
 確かに、幼い、幼児的精神の子が、社会常識が前提の適性問題の文章を読み解くのは、至難のことかもしれない。わたしに質問してくるのが、ほとんど問題の意味が取れないというものであるのはそのことを物語る。
 こういう子たちが、いわゆる社会見識を「弁えた」作文を書けない、のも道理である。
 当然国語を読み取る力も乏しい。
 算数が上級者になっても、なぜか、という疑問がある。
 おそらく算数を符号的に理解しているのではないか。つまり感覚的、直感的な理解である。論理として算数が完結しているわけではない。つまり、思考が実はない。
 こういう子たちは、幼児性、過保護からくる依存性において、常識的大人世界からは、隔絶されたところにいる。大人のメルクマールとしての、自立性が欠如している。主体的に考えるというよりも、最後の最後は投げ出す、放り出す、そういう危険に満ちた、依存心、甘えが心の底にある。
 主体性とは、最後の最後は、自らが、責任を取る、強い意志である。この意志があるかないか、が、主体性と依存性の分岐点となる。
 幼い、幼児性というのは、無邪気なわけで、それだけ純粋ということであるが、親が甘えさせれば、その幼児性から脱皮できないままに成長する。3歳から厳しく躾けることが、理想なのは、「風姿花伝」にもある。3歳は、最初の反抗期である。幼児性からの第一脱皮期である。厳しい、しかし、深い愛情は、子どもの律する心を育む。自制心である。自らをコントロールする精神である。これこそが、幼児にはない、精神的に自立した者のみが、持ちうる精神的下地である。
 「風姿花伝」は、という芸事を教えるには、3歳からと言っている。能の稽古である。能を通して学ぶということの意味を自覚させるのである。それは自ずと心を「律する」ことを日常とするであろう。この「律する」心を子どもの心に自生させることこそが、真の教育なのではないか。
 早くから、子どもにこの隠された教育をすることが肝要として、それでは普通の人は芸のかわりになにを名目とするか、である。普通の一般人は、学問を通して、「我慢すること」、すなわち「律する」心を培っていくのが、というか「しか」ないのではなかろうか。
 幼児性の強い子というのは、いつも誰かに構ってもらわないと落ち着かない。俗に「あやしてもらう」赤子の如し。幼児性というのは、飽きっぽい、一つのことになかなか集中しきれないのだ。だからすぐにふざける、ちょっかいを出す、揉める、喋る、無駄口を叩く、要するに、自分中心にしか周りを見ることができないのだ。自分本位の世界に住んでいるから、どうしても他人と揉め事を起こす。
 精神年齢が、高いというのは、我慢することに耐えられる、耐える、そういう意志の成熟度を言うと言ってもいい。幼児は我慢が利かない。感情の赴くままに行動する。
 さて、こういう幼児性が、長じても持ち越されたらいったいどうなるのか。
 昨今の、社会を賑わす凶悪事件も、身勝手、自分本位、我慢の利かない幼児性に根ざすものがあるように思える。親がきちんと、真の教育を果たしてこなかった、どころか、放任、放棄して恥じることがなかった、のではないか、とさえ感じるのは、私だけであろうか。
 

迂遠
うえん【迂遠】
(形動)[文]ナリ 
〔「迂」は道などが曲がりくねっていてまっすぐに進めない意〕
①遠回りしているさま。まわりくどいさま。「━な説明」
②直接役に立たないさま。「生活欲に襲はれた不幸な国民から見れば、━の空談に過ぎない/それから漱石」

 外堀から埋めるか、本丸突撃か、という命題がある。
 まず、基礎固めの段階というのは、必然前者しかあり得ない。ここで問題にしているのは、既に基礎段階を終えて、試験対策に取り組む、という場合の話しである。
 ここで、「迂遠」という言葉が、キィーワードとして出てくる。わたしは、試験対策というのは、「迂遠」な方法をとってはならない、と思っています。
 例えば、ある問題が解けないとき、そのためには、前段階の、さらに前段階の問題から勉強しなければならないか、である。
 もしそうだとしたら、なんとも迂遠な方法だと、私には思えてしまう。
 ここで、わたしが、考えるのは、基本的知識の理解、暗記の範囲である。もしここが曖昧なのであれば、何をおいてもまずここに専念しなければならない。
 ところが多くの受験生は、なぜか、応用的問題の演習をあれこれやる。それが対策だと思っている。大学受験だと、英語長文ができないというので、長文対策の演習書をあれこれとやるわけである。しかし、長文が読み取れないのは、基本的な理解、暗記した知識の範囲が少ないから、であるとしたら、応用ばかりやるのは、結局意味のない結果に終わるという意味で、無駄というほかない。
 実は、ここは多くの受験生が、弁えなければならないところで、足りないのは何か、よくよく考えてみればいい、つまり、本丸がないのに、外堀ばかりを掘ろうとするようなものだ。せっかく掘った外堀も守るべき本丸がないのでは意味がない。基本の知識が完全でないのに、応用ばかりやる、というのは、大手塾に通って、過去問類似、模倣問題(それは結局応用問題ということだが)ばかり、やっているのと同じである。基本中の基本である、計算マスター、割合思考訓練をスキップして、応用演習ばかりやる、これは、意味のない外堀を作ることと変わらない。
 応用は必要か。
 この問題提起は、基本を疎かにする、不完全なままに放置する、そういう受験生が、あまりにも多いところから、生じる問題意識から、発せられるものである。基本をやらない応用なんて既にして応用でもなんでもない。捨てるなら応用であり、完全な基本をまず身につけることが前提である。そのために応用の時間がなくなるのであればそれも致し方ない。それほどに基本を「完全」にすることは重要と言える。
 試験対策の再考
 とにかく基本を完全にする。
 基本に時間がかかる、このとき、それでは応用はどうするのか、
 試験の分析、どう出されるのか、どう出るのか、どう問題に組み込まれるのか、そういう観点から、試験を見る目が、必要なのは、実は、時間をかけられない、時間がない、時間の節約、という側面が大きい。これも実は奥が深い。時間があれば、他の参考書に手が回せるか、という話しになるからである。しかし、そうはならない。他の参考書を増やすことは、基幹の参考書にかける時間がそれだけ減ることが避けられないないからである。
 どう出るか、どう出されるのか、という出題の形式よりも、どういう問題点が、どういうかたちで組み込まれているか、つまり、出題の「手口」がより重要である。

 難しく考えるな‼️ 「要はこういうことだ‼️」と「物事を簡単に考える‼️」「簡単に言い換える‼️」

 本を、文章を理解する精神の働かせ方というのは、表題のようなことではないか、と思料する。
 いや、これは将来皆さんが専門的な書物を読むときに心してほしいことである。
 
 高速回転で読め‼️
 高速でなければならない。したがって、じっくり考えて読むのではない。チラッとしか見れない、そういう速さである。回転とは、ページをめくる速さが尋常ではないことを意味する。
 これはもちろん覚えるための読み方である。
 理解するときの読み方は、「物事を簡単に考える」つまり「要はこういうことだ‼️」と簡単に言い換える‼️読み方である。
 考えるとは、簡単に言い換えることと思って差し支えない。
 普段から高速回転ができるように「拾い読み」をしておく。参考書などは1ページからまじめにきちんと読むものではない。わたし流から言えば、「気になるところ」から拾い読みするのである。高速回転読みのときは考えてはならない。考える、すなわち言いかえ読みのときに考えるのだ。

 こうして本を読む読み方には、暗記目的の高速回転読みと理解目的の簡単に言いかえる読み方があることになる。

 受験生のみなさんは、読み方の2種類を使い分けることが大切である。

 

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