2021.11.22
◎ロボットと葛藤
ロボットには葛藤がない。ロボットは情報がメモリーを越えれば途端にフリーズするだろう。つまり停止する。
忘れる能力を持った人間だけが、葛藤する。消極型人間は、葛藤を回避するように行動するはずである。
以前に、まなぶ君としおりさんの話しをした。何事にも真面目なしおりさんは、几帳面で、学校の授業の予習復習もしっかりやり学校では優等生です。これに対して、まなぶ君は、好きなことには、我を忘れて熱中するけれど、予習や復習なんかやらないし、授業も面白くなければぼーっとしています。
小5になって、受験のために、二人は塾に通うようになりました。ところが、不思議なことが起きました。まなぶ君の成績がぐんぐんと上がってきたのです。これに対して、しおりさんはと言えば、少しずつ成績が落ちてきた。いつの間にか、まなぶ君に越され、まなぶ君はさらに伸びていくのです。
しおりさん型の、学校の優等生は、よくいるタイプです。真面目できちんと言われたことをやる子、タイプです。言われたことをきちんと守り、素直に従う子です。言われたことはできる。
学校でできない層というのは、言われたことができない子らです。これが多数派です。そういう子を専門にする塾もあるかと思います。しかし、少なくとも竹の会では、対象外です。
まなぶ君型の子を才能のある子と言います。好きなことなら寝食を忘れて熱中するタイプです。かつて獨協中学に進学した子がそうでした。算数で解けない問題があると朝まで考えてたりしたそうです。
消極型、問題回避型の子というのは、問題との対決を避ける(逃げる)ことでは迷いがありません。そうなのです。とにかく対決というのがつらいのです。だから中にはできるだけ模試を受けないで済まそうとしたり、体調不良とかなにかと塾を休んだり、背中を見せるわけです。いわば後ろ向き、背中を見せる子です。こういう子が成功することは当然ながらありません。
受かる子というのは、私の中では、確定したイメージというものがあります。一言で言えば「安定感」です。問題のたびにできたりできなかったり、こういう子は受かりません。ブレというか、斑(むら)というか、要するに、不安定なのです。だからできないというところで安定していれば合格は一切ないのは当たり前です。
合格する子の型というのがあります。私が合格を確信するのはそういう子のときだけです。
私の課したレジュメを私の信頼を裏切ることなく解いていく、これです。わたしの仕掛けた罠にかからず見事に躱(かわ)していく、そのタフな精神にこそ私の信頼の根拠があるのです。
とにかく、私を感嘆させなければならない。「この問題を解いたのか‼️ 」 これこそが合格の証しなのだ。
失望と落胆から何を期待できるというのか。
「この問題も解けなかったのか?」 失望と落胆が全身に負い被さる。
頑張れば受かるのか‼️
何度も申しましたように、試験というのは、才能のある者が選ばれる仕組み、いや制度です。才能がなければいくら頑張っも受からない。試験は努力の量、成果を評価する制度ではない。
才能+努力 が合否を左右するのは当然である。このとき、合否は、才能の質と努力の量の関数になっている。
才能があっても努力しなければ受かることはない。努力しても才能がなければ受かることはない。
努力とは何か。
勉強に向けた諸活動のことである。例えば、サッカーに現を抜かす、習い事や稽古事、ときにはその進級試験、発表会の準備のために時間を割く、こういうのは、勉強に向けた諸活動には入らないのは当然である。
かつて週の5をサッカーに投じて日比谷をめざすという親子がいたけれど、これはありえない話しであった。
そもそもそれでは、学校の授業進度に合わせて勉強を進めるという段になるが、そんなばかな指導は竹の会はありえない話であった、そんなことやってれば、中2までは頭がいいということで、それなりの成績を取れたとしても、中3になって破綻するのは目に見えていた。
竹の会は、学校の進度なんか信用してない。そんなことやってたら高校入試なんてできない。中1、中2の間に内申のための点取りだけやってれば、中3になってそのつけを払わなければならない。それは、高校入試失敗という代償です。内申はいいのに実力はないという典型的な学校授業追随型の子たちの末路です。
中1の1年間で、中学3年間の英数の履修事項を終わらせる、というのが、竹の会の信念です。だからその能力がなければ少なくとも七都立の合格はない。
注意 七都立 竹の会造語 日比谷、西、戸山、青山、新宿、駒場、小山台の七都立をさす。
渋谷基準である。一ランク下には、三田、文京、北園がある。
竹の会は、トップ都立指導の専門家です。専門家というのは、私の想い描くプログラム通りに進められれば必ず合格するということです。
私は難関私立高校の指導の方が実は得意かもしれません。わたしには、大手に行く天才たちを嘲笑しています。知らないというのはそういうことなのだと思います。竹の会でも、結局、私の指導の真価を理解できずに、竹の会をやめていった似非秀才たちがいました。「竹の会ではだめだ!」と大手に行ったのだと親子で判断したのでしょう。
何もわかっていないですね。竹の会の凄さがわからないのは、それだけの器であったということです。
竹の会というのは、天才であれば天才であるほど竹の会の真価を知ることになる、そういうところです。しかし、並の秀才ではわからない。竹の会ではだめだと、すぐ大手に走る。要は、本物を見分ける目がないだけのことです。それだけの人物であったということです。
大手進学塾がなぜだめか、これはまた別にそういうテーマで扱いたいと思います。