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一球入魂  

2021.12.11

 

一球入魂

 指導時間中、集中できない子は落ちます。特に、受検の学年では致命的です。なぜか。それは、指導時間に集中するというのは、ほかならない、本番の集中訓練をしているからです。指導中ダラダラしている子というのは、家庭学習でも同じではないかと思います。

 
 指導中集中できない者は本番で突然に集中するなど不可能である。普段の指導から集中する訓練をしておかなくてどうする。

 和気藹々、和やかな交流、そこには、自己の不安と闘う姿勢がない。不安から逃げる、背を向ける、厄介を回避する、そういう姿勢は、少なくとも戦いに臨む人の姿ではない。

 ダラーんと机に頭と体を預けどうかすると眠そうな顔をする。わかっていないですね。指導時間というのは、自分が本番でどれだけ集中できるか、鍛えてるんですよ。指導時間に集中できない人間が、特殊な空気の流れる本番でどれだけ集中を維持できるか、普段できたこともない集中がどれだけできるのか、試験本番の日だけ突然のように集中しようとすることにどれだけ無理があるのか、わかってもいない。
 試験直前に緊張感を維持しなければならないのは、本番が緊張した、張り詰めた45分だからです。だから普段から緊張と集中を涵養しなければならないのです。
 竹の会でもよく落ちた年の子たちというのは、緊張感に欠けていたと思います。よく喋る受検生というのは、受かった試しがありません。受検生どうしが和気藹々としていた年もダメですね。試験の緊張感から逃げていた、向かって行っていないと思うのですよ。ましてや受検生どうしがふざける、じゃれあうというのは、既にして終わっています。
 受検というのは、本番を見据えて、本番の緊張感に耐えられる不屈の精神を涵養するために、普段から緊張と集中を訓練する、自分に課すことなのです。指導というのは、ただに学科の訓練だけではなく、本番を想定した集中の訓練をする場なのです。
 その意味では、家庭学習でも同じです。家庭だからと言うので、居間でだらだらとか、音楽を聴きながらとか、何かをやりながら、何かを食べながら、というのは、全て本番を想定した訓練という視点からは、ノーです。
 そんなことやってるから、模試でろくな点を取らないのです。
 
 才能とは、工夫と言い換えてもいいと思います。工夫というのは、他人に何か言われてやるというような他力本願はありません。
 よーし、やってやろう、よし、なんとかしてみよう、何かいい方法があるはずだ、これが工夫の原点です。なんとかする、そこには、なくてもなんとかする、そういう精神が息づいています。
 算数とか、数学でも、このなんとかしてやろう、という工夫の精神が躍動力のエネルギーとなっています。
 だから他人に聞いて説明を聞く、解説を聞いて進める、授業で説明されて理解する、問題を読んですぐ解答を見て解き方を理解する、覚える、そういう勉強とは違います。 そういう勉強をしていれば、困ったとき、詰まったとき、工夫してなんとかする、そういう能力が「ない」頭が出来上がってしまいます。
 工夫というのは、何もないところから生まれるものです。何もかも満ち足りた人には工夫なんか必要性もないのです。困ったら誰かに解決してもらう、また新しいものを買う、それで済むからです。
 江戸時代、庶民は「ない」ところから様々な工夫をして難題を凌いできました。簾は暑さを凌ぐ工夫です。打ち水もそうです。風鈴は一瞬でも暑さを忘れる、庶民の工夫でした。江戸の庶民は生活を工夫することで生活感を豊かにしてきました。今のように、壊れたら新しいのを買うという生活は、子どもの脳から工夫してなんとかするという「もったない」という教育機会を奪うものです。
 「もったいない」から、修理する、そこに工夫が生まれます。「ない」からなんとかする、という工夫が生まれるのです。
 すぐ買うのは、思考なしの、まるで機械的な解決です。
 算数の問題がわからない、なら君はどういう工夫をしたのだい?
こう問いたいですね。ただわからないから「解き方を教えてくれ」というのは、新しいのを買ってくれ、というのに等しい。
 わたしが聞きたいのは、あなたたちの工夫です。工夫の成果を見せてほしいのです。
 再度繰り返します。
 普段の指導時間は、あなたたちが、本番でどう処するかの訓練の場です。そこで力を抜ききってだらーんとした姿勢・態度でいったい本番で何を発揮できるというのでしょう。あなたたちに足りないのは本番を意識した気迫です。わかっていないですね。竹の会は少なくとも力を抜くところではありません。

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