画像
中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

中学は一気に駆け抜けろ‼️

2021.05.27

中学は一気に駆け抜けろ‼️
 高校は研究者になったつもりで勉強に没頭しろ‼️

 中学を誤解している親や子があまりにも多い。
 勉強を適当に手抜きして部活を楽しんでもそれなりの高校に行けると楽観的である。それなりの高校とは、平気で日比谷などと言う。
 いいですか。中学の時、私は、級友たちに「九大に行きたい」と言ったら、級友のMが「阿部、お前には無理だ」と言ったものだ。中学の勉強というのは、既にして大学を想定してのことだ。高校は進学校に受かって当たり前、だから大学の話しになる。
 中学とは、朝から晩まで勉強するところだ。かつて「子どもには勉強ばかりでなくスポーツも楽しんで過ごしてほしい」という親がいました。そういう親の子というのはたいていほどほどの頭の子が多いのですが、たまにできる子もいるわけです。そういう子が、本来の能力を活かすことができずに、志望校を、諦める、下げるなどという場面をよく見てきました。
 人間的って、何ですか。中学を過保護の延長で遊んで過ごす、それが人間的? 近い未来に、勉強してこなかった人間が、非人間的な扱いを受ける蓋然性の高いことがわかっていても、今をあなたたちの言うところの人間的に生きるわけですか。
 勉強しなければ、職業は限られてきます。社会の扱いは勉強に挫折した者にはあまりにも過酷です。私たちは、近い未来に、親がかりではない、独立して生きる、そういうときに、社会の中で人間的に扱われるか、ということを少なくとも賢い人間なら考えなければならないということです、親が小学、中学時代をスポーツなどやって充実したものにしてほしいと言うこと、それが人間的な生き方と問うのは、わたしたちが人間的に生きるということは、社会からの扱いにおいて未来に過酷な非人間的な扱いを受けることが容易に想像できることからである。小学、中学時代は、社会も不当に扱うということは少なくとも建前上できない。しかし、その時に親たちの言う人間的に生きた、つまり勉強を適当にして遊んだ、スポーツなんて遊びです、そういうことに寛容であった社会も、ひとたび社会に出ればたちまち勉強してこなかった、その一事をとらえてたちまち牙を剥くであろう。それが社会である。人間社会である。
 そもそもスポーツと勉強を両立させて成功したなどという話しは、希であり、ほとんどは眉唾である。勉強はやればやるほど奥が深く終わりがない、これに対して人間の力など取るに足りない、なのに、勉強に全集中しないで、力を分散させるなど、どこまで舐めているのか。
 中学に入学してから高校入試まで、中3の11月まで発展的な勉強ができるとして、都合32か月、32✖️30日=960日 1日5時間なら、4800時間 この与えられた時間を平気で捨てていくのが、多くの、救い難い凡人中学生、親たちである。
 ほとんどの親は、中学というものがわかっていない。
 人間的に生きるというのは、ざまざまな行事にかまけながら生きるということなのである。大晦日、正月と行事を楽しむ。旅行を楽しむ。家族の誕生日を祝う。春、夏、秋、冬と季節の行事とつきあいながら生活する。中学もその流れに取り込まれる。
 だから部活も、習い事も稽古事も、そういう親たちには大切なことと疑われることはない。
 こういう勉強観を持った親や子とは、私は相容れないであろう。
 勉強とは、他のあらゆるものを犠牲にして初めて可能なものなのである。部活を優先しながら日比谷に受かるなどという戯言を平然と宣う親の頭の中は私の理解の外にある。
 中学とは、勉強にどっぷり浸かるところ、勉強以外のことに時間を捨てるなどということは考えられないですね。未来、しかも近い未来、3年先、6年先、10年先のことです、その近未来のあなたたちの生き様をとらえての話しなのです。
 この辺の自覚がないから、勉強しなくても平気、怒られるからやるなどと言う、しかし、あなたたちが、近い未来に、何をしているか、が問われている、先が見えているのに、何もしない、それは馬鹿な人間のやることだ、馬鹿な人間は、社会では人間扱いされない。
 
 わかっていないから、高校合格すると、すぐ遊ぶ。中学が勉強するところなら、高校は勉強の奴隷になるところです。勉強が主人です。あるいは、勉強を研究するところです。朝から晩まで勉強してやっとその日は解放される。だから勉強の奴隷です。それもこれもみな社会というものの表裏、裏の顔を考えてのことです。社会というのは、人道的とか、教育的とか、建前はなかなか立派ですけど、実際に、社会が人間に求めているのは、かなり厳しい処置です。働かない者は社会では生きていけません。社会的不適応というのは、社会の個人にら対する処断です。中学で、学べ、時に遊べ、という親は、社会の表を見て言っている。しかし、社会というのは、現実は厳しい、と言われるように、裏に牙を隠している。親が、子に社会の牙がないかのような能天気なことを言うのはあまりにも浅い、
 私たちは、子にいいことばかりを言って、「健やかに育ってほしい」などと戯言を言って、子を使いものにかならない、甘っちょろい人間にしてはならない。子には、社会というものの真相、生々しい現実、過酷な非人間的扱いをする魔物だ、ということを教え込まなければならない。社会には隠された牙がある。社会の底辺に放り出されたら、たちまちこの牙の犠牲になる。
わたしたは、社会という魔物の正体を知っているから、子どもたちを護ろうとする。子どもたちに自ら戦う術を教えて、老兵は死ぬ。それでいい。
 小学、中学とは、子どもたちが、社会との戦いを仕込まれる時期である。ここで過保護バリアーを巡らして、生き方、生き抜き方を教えてこないでどうするのか。
 教育とは、戦い方を教えることだ。それが勉強する、ということである。

 子を放牧する親の罪
 勉強という訓練を放棄した親の言い訳はいかにも嘘くさい。まだ子どもにやる気がない? やる気を待っていたら、結局教育の機会を捨てることになる、そんなこともわからないのか。子どもに自由意思、しかも主体的な意思なんかあるわけがない。またそんなものが放っておいて育つわけがない。自然発生的に勉強する気持ちが生まれるなんて誰が信じるのか。子どもは放っておけば、楽に流れる、遊びには際限がないから、堕ちるところまで堕ちることは目に見えている。子どもをそのまま社会の牙の餌食とすることだ、ということがわかっていないなんて。
 気がついていないようですけど、子は親が育てたように育つものです、勉強しないのは、そのように育てたからです。
 さて、そこでです。とにかく塾を探すことになる。まあ、東京の親は間違いなく、近くの大手をまず考える。ただ子どもが大きいところはだめというので、小さな個人塾を探す親もいます。
 さて、それで無事「駅前塾」に入塾させて、これで一安心というふうに考えるのでしょうね。
  塾難民という言葉は、私しか使っていないのかな、塾に行かない、行けない親子をそう呼ぶかに見えますが、実はそれだけではない。どこかの塾に通っているけれど学力がつかない、ついていかない子たちがいます。わたしは、これをも含めて使っています。問題なのは、当の親子が、難民と思っていないから始末が悪いのです。
 大手にいたという子たちが、たまたま竹の会で勉強する機会を得る、そういうケースはよくあるのですが、そういう子たち、いや親も含めて、竹の会の魔法の虜になるのはどういうことでしょうか。わたしは、そういう子たちを指導して、この子たちに本当に必要な指導というものが、なされてこなかったのだな、ということを痛感しました。いい指導してやれば、もっともっと伸びていたのに。なぜ大手を突然やめたくなったのか、それは知りませんが、竹の会の指導を知った子たちが、目を輝かせ、「私の探していたのは、ここでした」という心情がわたしにはひしひしと伝わってきます。かつて有名な塾ばかりを渡り歩いてきた、上原中2年のS君(竹の会第1期生)が、私の指導を受けた後、「今までいろんな塾に通ってきましたが、ここが一番いいです」と目を輝かせて、いや感動したことを隠さず、言ったことを今でもまざまざと想い出します。彼は、最後は河合塾のグリーンコースにいて、東大の学生を二人家庭教師につけていたが、すべて捨てて、竹の会の虜になった、平成9年有名塾啓明社から来た女子は、いやお母さんも、私の指導を受けた途端に、竹の会の虜になった。二人とも期せずして青山学院高等部に合格して、合格後も竹の会に通ったことも共通している、二人とも竹の会をやめたくなかった、どうしても竹の会で私の指導を受けたかった、竹の会とは、子どもたちにそういう気持ちにさせる、そういう塾です。
 竹の会の子たちが、竹の会の魔法にかかり、私が「もう無理だ、退塾してもらいたい」と匂わせても、竹の会の子たちは、なかなかやめてくれません(苦笑)。
 この機会に本音を言っておきます。私が、退塾を匂わせる、たいていは「退塾した方がいい」と言うときは、本音です。退塾させると言うのは、子どもにはショックでなかなかこちらからは言えない。余程のことがない限り告知できない。だから、私の心に気づいて、そっと引いてもらえればと願っての言葉なんです。中学生なんかは、成績が落ちればやめてくれますから、わたしから言わなくても楽です。中学が竹の会で成績が落ちるのは、明らかな勉強不足による失速のほかないのですから。私が失望を積み重ねているうちに、向こうからその時が来る、そういうことです。
 これだけは言っておきたい。私は子どもたちの教育に、指導に必死です。一度も手抜きなどしたことはありません。手抜きをするのは、子どもたち、親たちでした。それでだめになっただけです。私ももう歳です。それから私は竹の会の子どもたちが、本当に大好きです。そう接して来ました。子どもたちの誕生日なんか覚えていないのですが、だれかがが言ってきます。「先生、〇〇ちゃん、誕生日です」と言ってきます。「そうなのか」、暇を、見て、ハンズなんか歩いて、適当に探します。私は君たちのことが大好きだということがわかってほしいからね。時には、怒鳴りますけど、そして「やめてしまえ」とよくいいますけど、シュンとした子どもたちを見ているのは、悲しいですね。だからそれ以上はもう何も言えない。
 今は、子どもたちに、私の指導を、最高の指導を、届けたい、そんな気持ちだけです。いつ倒れるかわかりませんからね。

ページトップへ