2018.05.07
昨日は竹の会の記念日でした、ほんとうにささやかな私ごとなのですが、思わぬお祝いを予想もしていない方たちからいただきただただ感謝しております。
胡蝶蘭は、日比谷受験にかけるお母さまの熱い思いが込められているようです。「33」は特大の手作りクッキーです。今年涙をのんだ中3だった女子が私立の進学校で充実した高校生活を送っているという報告をしてくれました。お母さまもいっしょに報告にきてくれました。胸につかえていた思いが溶けていくようで、朝5時から今日のために緊張して準備していた疲れがすーっと引いていくのがわかりました。「先生、花って、何の花が好きですか」と聞かれて、思いついた「ひまわり、かな」と言ったのが何日か前の話し。そういうことだったのですね。祝のカード付きの盛花は休みの日は7時間~10時間勉強するという中1のお母さまからのものです。わたしには、あんなにもがんばっている子どもたちに胸を熱くしてお母さまがたが竹の会にお祝いというかたちで子どもさんたちへの深い愛情を示しているように思えました。ありがとうございます。
◎耳鼻科にゆく
今日はまず恵比寿の適当な耳鼻科に行ってきました。中耳炎でした。すでに抗生剤は処方されていましたが、とにかくいろいろ薬を処方されました。喉風邪から中耳炎ということですが、その以前にかなり疲れが溜まっていたということなのでしょう。幼少期には慢性中耳炎で郷里の別府から大分市にあった鉄道病院に毎週祖母に連れられて行ったものです。病院に行かなくなってからも耳から膿が出れば、脱脂綿を捲綿子に巻いて、オキシドールを塗布したり、膿を吸い取ったりしたもので、実は、中耳炎は慣れていました。別府駅から大分駅まですぐなのですが、列車の中でアイスを買ってもらうのが楽しみでした。それから駅弁売りが弁当を売り、乗客が買って、上手そうに食べる、そういう光景というものをよく見ていましたので、わたしも汽車弁が食べたくてしかたなかった。それで祖母におねだりしたこともありましたが、値段が高い、それで祖母は決して買ってはくれなかった。それがもう病院に行くのが最後という日に、なぜか祖母が優しい顔をして「たけちゃん、駅弁食べるかい」と言って1つ買ってくれた。わたしは夢中で食べたのを覚えています。祖母は苦労人でがまん強い、辛抱強い女性でしたが、きせるたばこを吹かしながらうれしそうにわたしが弁当を「おいしい」「おいしい」と言って食べるのを祖母もまたうれしそうに見ていました。祖母は短命で72で他界しました。祖母は野菜作りの名人でした。そして着物を仕立てる名人でもありました。祖母には別府の検番から芸者衆がよく仕立てを持ち込んできたものです。自分は素人だからといってそれはそれは安い仕立代しかとらなかったのでそのことが芸者衆に広がり頼みにくる人が増えるばかりでした。そして祖母の仕立てのよさが認められて、今度は和服のお店からも仕立ての依頼がくるようになりました。ばぁちゃん、はたらきすぎだよ、そう思います。70過ぎたら、もうのんびりとさせてやりたかった。別府の実家に、新築の家が建ったとき、母は、よく「ばぁちゃんが生きてたら、どんなに喜んだことか」と言っていました。その母も実家の隣地を弟が買い取り家を建てて住んでいると知ったら、きっと涙を流して喜んだことでしょう。実家の隣地はかつて坪600円の昔に、「買わないか」という話しを母の反対で断って、それから隣には境界ぎりぎりに二階屋が建てられて、狭苦しい思いをしてきた因縁の土地でした。ひょんなことから売りに出されて、すぐに買ったのです。
祖母も母もいなくなり、二人の合作であった、天日干しの梅干し、白菜漬けが食べられなくなりました。ばぁちゃんの漬けたらっきょもすごかった。東京で店で買うもので祖母と母に勝つものはない。母の得意は五目寿司と巻き寿司でした。遠足とか、運動会とか、お正月には必ず母のお寿司が並んだものです。海苔は父の妹が嫁いだ有明湾に面した宇土の海苔です。こちらも毎年大量に送られてきました。もう大きなダンボールに束になって送られてきました。母の実家は津久見市ですが、みかんの生産地です。津久見産のみかんは当時の我が家ではあたりまえのように豊富にありました。叔父がみかん農家の養子に入るとまたよくみかんをもらうようになりました。わたしも高校の頃、叔父の密柑山で一日消毒の手伝いをしたことがありました。今考えるとあれは身体に悪い。全身に消毒薬の霧を浴びてましたからね。叔父は津久見にあった小野田セメントの現業としてはたらいてもいましたから、叔父が若くして肺がんで亡くなったのは、石灰岩の噴霧を長い間にわたって吸い込んできたせいではないか、そうも思っております。わたしは高校の頃、新聞部に所属していまして、その仲間たちと別府から津久見市まで自転車でサイクリングしたことがありました。どれくらいあったのかな、着いたときは真っ暗になっていた。坂道はきつかった。叔父が愛想よく夕食をご馳走してくれた。
◎テキストで見る竹の会の歴史
上段左から「入試英語指導案」、「新英語指導案」、一番右が初代の「英語指導案」
下段の左が、竹の会の中心であった指導案三部作、中は、入試英語指導案の前身、一番右は、推定年齢25才のカイマン君(カメです)
かつての竹の会では、数学についても、中学数学を体系化したテキストがありました。しかし、平成17年に廃止、徐々にレジュメへと切り替えていったのです。
最近では、上の写真のようなレジュメ集が発行されることが多い。手作りです。電動ホッチキスと接着剤で製本します。
レジュメは基本バラバラなのですが、場合に応じて、製本することもあります。