2020.12.22
◎作文とは思索である!
人間は考える葦である。パスカル。
しかし、凡人には考えることは苦しみに違いないから、普通には、考えない葦なのではないか。
ところで、なぜ葦なのであろうか。
パスカルは『パンセ』のなかで人間を葦にたとえながら語る。
「人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である・・・」
葦は折れやすくもろい。葦はそのような人間の弱さを象徴しているのであろうか。
なぜ「葦」なのだろうか?
調べてみた。
『パンセ』はキリスト教弁証論として構想された。懐疑論者や無神論者に対してキリスト教の正しさを論証することがパスカルの目的だった。
とくに人間の悲惨とキリストによる救いは『パンセ』の中心テーマのひとつである。パスカルは原稿を準備しながら聖書を丹念に読んでいた。そしてメシアについての預言や、イエスの受難の場面から浮かび上がってきたある植物に注目する(前田陽一「考える葦」の由来)
・・・メシアの預言、荊の冠と対をなす葦の杖、十字架上へさしのべられた葦の棒と、キリストの一生の大事な時点に三回も登場してくるところから、「いためられた葦を折ることがない」(『マタイ福音書』一二の二〇)
楽だけど虚しい無思索の生活と苦しいけれどもなにがしかの満足がある思索生活、あなたたちはどちらの生活を望むであろうか。
上の言葉は、入試問題に出てきた、ある哲学者の言葉である。
その著者は、さらに言う。
パスカルの考えるとは! もっと本質的な思索のこと。人間とは何か、自分とは何か、生きるとはどういうことか、人生の価値とは何か、つまり、人間の、自分の生き方にかかわった問題についての思索です。だから将棋の次の一手を考えるとか、ヒントを出されてクイズを解くとかいうよつなことおは本質的に違う。もしかしたら、人間の偉大さを証明できるような素晴らしい考えが浮かぶかもしれないではないか。(以上引用)
国語とは何か。国語は何のために学ぶのか。
受験のため?
ここである事実を述べてみたい。
三大予備校の一つ、駿台予備学校の国語科の講師は全員東大哲学科出身ということである。
なぜ哲学科なのかな。
かつて私は国語の勉強を尋ねられて、「ソフィーの世界」を薦めたことがある。物語を通して哲学を、学ぶというのが面白いと思った。もちろん私も読んでの話しである。しかし、小学生にはいささか難しかったようである。中学生には、池田晶子の「14歳からの哲学」を薦めている。
考えるといっても、心の働きは多様である。算数を考えるというのと、人間の存在意義、存在価値を証明するのとでは、そもそも違う。何が違うって、算数の問題と違って、後者には、模範解答がない。人間の存在にかかわる問題について思索すること、人間の価値にかかわる問題について思索すること、は、実は、人間、社会の根源について考えることである。
翻って考えてみよう。国語の論説文で扱われるテーマについてである。多くのテーマは、突き詰めれば、哲学的問題に突き当たる。つまり、論説とは、いや小説でさえも、根底に、背景に、常に哲学的な問題を孕んでいるということである。読解の根底には、哲学がある。そのことは、読解者は、予め哲学的思索をした者でなければならない、ことを示唆している。読解とは、思索した者が自己の思索で読み解くことである。
わたしは、冒頭で「作文は思索である」と述べた。作文とは、与えられた問題についての自己の思索の結果の披露である。
実際的考察
桜修館の作文
かつて「水」をテーマに、「水のかたち」を問う問題があった。
確かに、水は私たちの生活の中に、いろいろな「かたち」をもって表れる。私たちは、水つまり液体というものが、環境の、器のかたちに柔軟に合わせてかたちを変えていくのを、あたりまえのように受け止めてきた。
ここで思索をしてみようではないか。
そもそも水とは私たち人間にとってどのような存在なのか、存在であったか。
私たちは、川の恵みに育まれて育ってきた。生活してきた。森の小川は森に住む生物たちにどのような恵みをもたらしてくれたか。あのときの水のかたちはどのようなものであったろうか。
今では私たちは家に居ながら水道の蛇口を捻りさえすれば清潔な水を生活に使うことができる。
水道の水は、太い線のかたちをしている。その水は器に器のかたちに合わせて存在する。
さて、水とは何であるのか。私たちが求めて止まないもの、生命の源、私が存在するのも水のおかげ、私たちは水に生かされている。水はいろいろなかたちをしてわたしたちの前に現れる。
子どもの頃、暑い午後、運動場で三角野球をよくやった。遊び疲れて家に帰ると、母が、ボールに粉ジュースを入れて、氷と水で薄めて、私と弟は、ストローで、一気に吸い上げた。あの時の水のかたちは、丸いかたち、心地よい丸いかたち、母の笑顔が心地よく、甘いオレンジの味が体の中の熱を一気に冷ましていく。
私たちは、水の様々なかたちを知っている。山の岩から滲み出る水のかたち、森を歩くとき出会った流れる小川のかたち、夏の暑い日の行水のたらいの水、そうなのだ。水のかたちとは、私たちの生命を育むもの、それは私たちの生活そのものなのではないか。してみれば水はかたちを変えて私たちの生存を支えている。
作文は思索である。
あなたたちは、思索しなければならない。
かつて平成22年に桜修館に合格した杉山太一君のことを思い出す。彼は9.11のテロで父君を亡くされた。わたしはそのことをちっとも知らなかったのであるが、ある時、毎日新聞の写真特集の9.11のテロの写真集が出たとき、教室で写真を子どもたちに見せた。そしたら彼が「私の父もそのタワーにいました」という。「えっ」、それで彼は言葉少なにあのテロで父君が「亡くなった」ということを冷静に話した。私は言葉を失った。それからもう黙々と指導を続けた。
彼の作文に、何か真に迫るものをずっと感じていたことが突然私の頭の中でつながった。彼は父君の死という、人生で最大の苦難を乗り越えてきたのだ。彼は父の死に直面したときから、哲学的世界の住人となっていたのだ。常に、死とは何か、生とは何か、を問い続けていたのに違いない。彼には見るもの聞くものがすべて死と生の世界から眺めであったに違いない。
親が何もかも整えてあげるような子には何もかも揃っていること、満たされていることが、当たり前で、社会的な様々な問題が、なぜ問題なのかわからない。だってその子たちには何の問題もないことなのだから。当たり前のことだから。ただ机上の学問でそれがなぜ問題なのかを勉強しても、それは表層的な理解の域を出ず、心の叫びはちっとも出てこない。
世の中には、作文教室とか、国語教室とか、ありまして、子どもたちに、作文の方法とか、テクニックとか、読解の方法なんかを教えている塾があり、親たちはこれをありがたがっている風潮もあるようですが、甘やかし放題の親にそもそもの問題があるのであり、なにか違うのではないでしょうか、とツッコミたくなる。
さて、作文とは、思索である。思索とは、生きるとはどういうことか、生きる価値とは何か、そういう問いかけを続けることである。
正解のない問題を考え続けることは、楽なことでない。思索を避けて、現状肯定、享楽的な生活に堕することほど楽なことはない。思索にほとほと窮したならそのときこそ先人の知恵に学ぶときだ。パスカル、デカルト、ニーチェ、もう尽きないくらいの悩みの先達がいる。岩波文庫には古典の知恵が、埋蔵されている、ほかに、講談社学術文庫や筑摩学芸文庫だってある。
わたしは「ソフィーの世界」もいいよ、と言ったけど、なかなかの大作で読み切ることは難しいかもしれません。
個人的には、池田晶子さんが好きなんですけど、小学生には、難しいかもしれませんね。