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勉強の極意 忘れること

2023.10.03

🔛勉強の極意 忘れること
 暗記しろ! 覚えろ! は正しかったのか!
 気になるのは、暗記するほど、思考は低下する、ということだ。
 知識が豊富な人ほど、思考が足りない、というのは、真理
 専門家と言われる、知識豊富な人が、思考未熟ということは、よくある。
 専門バカという言葉があるけれど、これは、専門知識に邪魔されて、深い考えができない、という意味に解する、
 ほかに、専門以外は、何も知らないという解釈も可能。
 専門バカゆえに思考が働かないから、専門外にも頭が働かない、というように、最初の意味から、理由づけることもできる。
 勉強とは、忘れることである。
 その前に、勉強とは、考えることである。
 知識は、考えることの邪魔になる。
 知識は、忘却を通して、抽象化していく、のが、勉強の本筋である。
 高校入試数学を例にして、説明してみよう。
 数学は、問題の解き方を理解して覚えることだ、と思っている人がいるかもしれない。竹の会では、七回解き直しということを推奨しているが、これを暗記と捉えているとしたら、とんでもない誤解である。
 解き直しは、間隔を置いてやらなければ効果はない。
 なぜ? 忘却の時間を取るためである。とにかくいったん忘れる。これが、ポイントとなる。意識から消すのだ。忘れ去られている間、無意識の領域で、抽象化が進むことであろう。 
 「暗記→忘却→思考」
この忘却の過程で、抽象化が進行する。
暗記→忘れないうちに再暗記
従来、これを繰り返すことが、暗記の常道とされてきた。
わたしたちが、例えば、車の運転を覚えるとき、何度も失敗しながら、次第に要領を掴んで覚えていく。この過程は、無意識の抽象化であると言われている。いちいち意識で考えて覚えていくのではない。忘却して、抽象化するのだ。無意識の世界で、雑情報をバラバラに分解して、抽象的な骨格に作り直す、換骨奪胎する。抽象的な核というのか、アウトラインというのか、とにかく抽象的な思考基準みたいなものが、出来上がっている、。というものはない、その抽象的な核みたいなものがあって、それを元に思考を巡らせるようになる、思考を獲得するとはそういうものです。
 知識というのは、詰め込めば、つまり意識が知識で満載感があれば、思考というのは働かないようにできている。
 覚えていることを思い出そうとする、頭の働きは、思考をシャットアウトする働きでもあるのだ。記憶で、勝負するのは、リスクがありすぎる。
 わたしたちが、例えば、柔道で技を覚える。これはもう何度も反復練習して、体が覚えていく。すぐ忘れる。しかし、忘れたと思っていたのは、意識であって、身体はしっかり抽象化して、再現してくれる。別に、意識なんかしていない。自然と体が捌ける。意識は、「こうしよう」と特定の動きをコントロールすることはできても、全体的な体の捌きまでは、意識でコントロールできない。無意識が体を動かすと言っていい。
 無意識が無意識の中で思考している。確かに思考している。
 意識というのは、つまり、意識しているというのは、パソコンで言えば、メモリーで認識しているということだ、

 繰り返した刺激を適宜に忘れること‼️
 繰り返すことだ❗️
 そして大切なのは忘れること
 この忘れるという不作為は、無意識が加工修正、再構成した抽象的枠組みだけを遺す。思考は、この無意識の加工した枠組みを受け継ぐ。この繰り返しが、無意識の抽象の塊を法則化する。
 わたしたちは、いちいち意識して行動を選択していない。行動は法則化されて、わたしたちは、自分の法則にしたがって行動している。
 意識すること、意識を働かせること、考えるときの、最も一般的な形ですね。問題を読んで、図をかいたり、わかりにくいところを何度も読み返して、その意味を読み取り、それから考える。考えるのは意識です。その時、無意識に蓄積された法則が意識の中で蘇る。そういうことなのではないか、と思うのです。
わたしたちは、自分の「忘却」という装置を使って、抽象化をする。その抽象化された法則は、意識が働くとき、意識がその抽象化された法則を思考という意識の働き方の中で使うのだ、と思います。
 こう考えてくると、勉強するとは、意識を働かせる時間だけでなく、いったん意識で理解したことを忘却する時間も計算に入れておかなければならない、ということです。
 忘却してから、再び考える。このとき抽象化に成功しているか、ですね。
 こうなると、忘却の段階に入る前の、覚える、正確には、理解する段階がかなり重要になる。理解して覚えたか、理解の深度はどうか。
 理解というのは、「わかった」ということですが、この「わかった」がよくわからない。はっきり言って「わかった」とは、感情の問題ですね。感情は、どういう場合に「わかった」という感情をもつのか。
 それは、「わかった」物語が、完結したときではないか。
 わたしたちは、あることが「わかった」という物語をつくる。その物語が物語としての完成度が高いほど、「わかった」という感情は確かな昂まりとなるのではないか。
 
 
 

 

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