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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

分散こそが失敗 

2022.08.05

 

 

「前提」を問う、ところから、思考を始めることの勧め
 前提は黙示の共通理解として、省略されることが多い。しかし、本当に共通の理解なのか疑わしいことも多々ある。そうなると前提がわからないから、本論がわからないということは往々にしてある。
 例えば、専門書というのは、前提となるもの、例えば、定義から入るものでなければ、まず路頭に迷う。学者の論文が、わかりにくいのは、学者どうしの討論なので、前提をそれこそ何重にも飛ばすからだ。学生向けの概説書となるとこの前提を飛ばすことはあり得ない。しかし、例えば、民訴や会社法の専門書には、千ページに及ぶものもあり、その中には、自論を展開するところもかなりの頻度で出てくる。これはどうも学者を意識した口吻がありありで、前提抜きの議論になりがちである。
 わたしには、こういう専門書を「読む」ということの利点というか、意義というものが今ひとつわからない。
 予備校がこれだけ鍔を競うと、予備校の教材の進化が著しく、国家試験では、大学の講義、指定の教授の書いた本などなんの役に立たない。国家試験は、アカデミックなものを求めていない。つまり、大学は、国家試験には不適応なままに、予備校の質を上げることに貢献した。
 さらに、アマゾン、メルカリ、ヤフオクといったネット市場が、風穴を開けた。書店の被害は大きかろう。小商人、個人商店がどれだけ廃業に追い込まれたことか。

分散こそが失敗 
 多岐に手を出す、つまり、すべてが1回も読めないで終わる、これほど中途半端なことがあろうか。
 一冊主義は、分散という勉強にとっては、致命的ともいうべき悪魔からの回避を必然にするのである。
 一冊に絞れ。そしてその一冊を7回読め。これぞ勉強、いや受験の神髄なり。
 一冊を読む、これにも神髄がある。読む速度である。高速回転が7回読みの極意。高速とは、文字を目で追う読み方をすることによって可能となる。文字の意味を取りながら読むのではない。それは高速回転の前段階でやることである。回転とは、頭の回転のことではない。もちろん高速の概念には頭脳の回転の速さも関係してくる。しかし、ここでいう回転とは、読む本を1回読み終わることを1回転という意味で使っている。したがって高速回転とは、1回回す速さを指している。となると教材も高速回転に適したものでなければならない。
 塾の先生というのは、そういう教材を選ぶ能力に長けている、と思う。
 7回読みというとき、絞った一冊が、大きくものを言う。山口真由さんは、予備校の教材を使うことがベストと述べているが、昔は、学者の本を読むのが当たり前と考えられていた。予備校の進化は驚異であった。真法会の向江会長の時代、つまり昭和50年代は、予備校が大学から失笑される存在であった。ところが予備校はまるでウィルスのように強かであった。予備校に行かなければ合格しない存在にまで上り詰めた。こうして予備校全盛時代を迎えることとなる。早稲田司法試験セミナー、LEC、辰巳法律研究所の御三家が全盛だった頃、LECの講師だった伊藤真が伊藤塾を立ち上げた。それから数年で更なる有名予備校が生まれた。予備校は教材を競った。看板講師を仕立て上げ、高額な講座料を集めた。国家公務員試験を受ける学生が、70万の札束を予備校の窓口で払う光景を当たり前のように見たものだ。
 山口真由さんは、予備校の本を書店で品定めしたような記述をしているが、予備校に通っていたかどうかについては、お茶を濁している。彼女は、学者の本を「網羅的でない」と批判している。さらに「学者の自説の主張の場」としての学者の本が、試験には向いていない、とも述べている。確かに、そういう本が主流なのは知っている。しかし、かつての「ダットサン民法」のような達人の手になる民法概観は得難いものがある。当時でも網羅性に欠けることは言われていた。それで松坂の「民法提要」全5冊が、知識の羅列ながら最も選ばれたのだろう。
当時、鈴木竹雄の「会社法」は、名著と言われた。300頁という、法律書としては、コンパクトだった。今は、同じ弘文堂シリーズの同じコンセプトで書かれた神田秀樹の「会社法」は、私は名著だと思う。ページは400頁を超えてしまったが、必要十分な知識を簡潔に示す、という鈴木の精神は引き継がれている。山口真由さんの一般的な学者本の総括は必ずしも当たらない。
 ただ山口真由さんの一冊主義は不動の真理である。蓋し、勉強の鉄則として、様々な人間脳の開拓を必然とするからである。
 一冊主義のもたらすもの、それはその一冊に集中せざるを得ないところからくる分散のシャットアウトである。山口真由さんは、パーレットの2-8法則ならぬ、山口流2-8法則を唱えている。8は反復繰り返しの結果、見慣れた知識のことである。最初は、8-2、で知っている、見たことのある知識は、2かもしれない。しかし、反復繰り返すことによって、2が3になり、3が5になり、7になり、ついには8になる、こういうことを言っている。本を開いたとき、見慣れたことが8ある、こういう形に持っていく、これを勉強の理想の形と言っている。
 頭をフル稼働させるとしたら、ノートに取る、まとめるとか、本に線を引く、マーカーで塗るなどという行為は、2-8の鉄則の邪魔になるのが、論理的帰結である。
 とにかく、私たちにできることは、1冊を「読む」、何度も「読む」、これしかないのである。
 さて、ここまでは、分散という、脳にとって甚だよろしくない結果をもたらす欠陥について分析してきたのですが、一つに集中するというのは、人間の脳のありように最も適合する方法なのだと思います。ここから生まれる様々な副次的効果が計り知れない。応用が生まれるのも分散を回避したからこそです。 
 集中は工夫を生む! しかし、分散は何も生まない。分散のもたらす、最も、忌むべき病魔は、精神の混乱である。分散とは、拠るべき核を持たないが故に、ブレる、彷徨う、挙句、雲散霧消する、宿命にある。
 心を分散から守るには、対象から、物から、コントロールしていくしかない。心は物をどう扱うかで、自らの心をコントロールする。物の扱いに、心の集中と分散が如実に反映されている。
 勉強の姿、方法は、人それぞれとして、その行動様式に、その人の心の分散度、集中度が、さながらに表れる。
 「これしかない」という状況設定が、人を追い込む。追い込まれたときの人間は、ないところから知恵を絞る。知恵を働かせる。つまり、工夫する。つまり、「ない」という状況が、集中を極限にまで高める。
 これに対して、分散は、人間の脳を「無力化」する。よく受験直前に、知識を詰め込む型の勉強をすると、あれもこれも手を出して、つまり「分散」化して、脳の無力化が促進する、ということはある。ブレるというのは、軸がないということだが、それは分散、いや雲散なのではないか。とすればそれはいずれ霧消する運命にある。
 竹の会では、合格者を出した年のほうが、いろいろやってない、というデータがある。もちろん生徒の質が関係もしている。出来が良くないから、いろいろやることになるからである。質のいい、少ないレジュメで、済ませればそれが一番いい。多くのことに分散させるよりも、少ないことに集中させるほうがいい。
 やりすぎは、子どもの脳を逆に毀すように思う。
 常に脳を集中させるようにコントロールすること、裏から言えば、分散を絶対に避けること、これが、勉強を進める羅針盤になる。
 知識が、邪魔をして、正常な判断を狂わせる。これは、難関国家試験で、試験委員が、受験生を惑わすために、必ず常用する手である。受験生の知っている知識を逆利用して、甲乙判断し難い、それこそ悩ましい事案を作る。これは、タチの悪いことに、この判断を誤ることで、答案は、まったく違ったものになる。つまり、これで合否が決まるのだ。
 後から考えると、実は、ヒントが暗示されている。それがヒントと気づかせない。ある判例、先例なりがあるときに、その先例に想定外の手を加えた事例は、もはや先例がないのだから、基本原則に戻る、ということではないか。先例に手を入れられたらもはや先例ではない。
 分散は、こういう判断ができない。場当たり的に甲乙を判断する。
 迷ったら原則に戻る、というのも、分散と集中のいずれの態度で勉強してきたかにかかる。
 試験勉強というのは、最後は、「この一冊」に絞るという過程のことである。
 2冊はない。たとえ「補充」という名の下でもそれはない。「補充の思想」そのものが、一冊主義の崩壊をもたらす危険なものなのである。
 原理原則で考える、つまり判断するという思想
 これは、すなわち基本を確実にする、ということでもある。応用というのは、基本を変化させる、二重、三重に組み合わせる、ということか、と思うが、基本に戻って考える、原理原則で考える、というのは、まず、前提として、基本を「どのように」変化させたか、あるいは、三重なり、二重なりの一見複雑に見える事実を、つまり複雑に絡められた事実を単一の事実にバラバラに分けてしまう、そういう作業が必要で、これをもって「考える」というのである。つまり、原理原則は、シンプルなものであり、シンプルな事実に対する態度を定義したものであるから、原理原則の判断が可能なように事実を、こんがらがった糸を解きほぐすように、事実を丁寧に分けていくことが必要なのである。
 何度も言うが、人間というのは、同時に2つのことは考えられない。思考の回路というか、シナプスの系統は、一つのことを繋ぐようにしか作られていない、だから、問題点ごとに、考えていくしかない。こうして、人間脳は、「分けて」考えるようにできている、ということをまず弁えなければならない。
 よく試験中に起こすパニックというのは、一度にあらゆることを処理しようとすることから起る。思考はフリーズするのは当たり前である。
 2つのことを聞かれたら、まずその2つの前後関係を考えて、前提となる1つに絞る。絞るときは、順序がもちろん大切である。
 自分は一度に1つのことしか考えられない存在なのだという自覚を持つことである。
 原理原則で考える、ということは、蓋し、このことである。
 要するに、ある原則と他の原則が絡むとき、そういう先例はないのだとしたら、そこから出てくる結論は、否定、つまり原則に戻る、ということなのではないか。
 いや原則論を通して、特殊なケースは、否定する、のが、正しい選択ではないか。特殊な事案からは特殊な結論が生まれると考えるのは実は確率論からしても誤りなのではないか。
 試験合格の、最終段階では、「集中と分散」、わかりやすく言い直せば、「一冊とあれもこれも」という究極の選択は、「一冊」をどれだけ「回すか」ということに尽きるのではないか。
 一冊を何度回せるか、である。あれもこれもを「精神を分散させて回す」のではない。
 

○小6早稲田進学会模試

3科型“そっくり模試”対象校

  • 小石川中等教育学校
  • 武蔵高等学校附属中学校
  • 大泉高等学校附属中学校
  • 白鴎高等学校附属中学校
  • 富士高等学校附属中学校
  • 両国高等学校附属中学校

時間割

9:15~10:0010:15~11:0011:15~12:0012:45~15:30
適性検査Ⅰ適性検査Ⅱ適性検査Ⅲ解説授業

※ 12:00~12:45は昼食の時間です。弁当を持参して室内で食べられます。

2022年度 実施日程

実施回〈第1会場〉〈第2会場〉
第1回7月9日(土)東京セミナー学院(池袋)7月10日(日)東京経済大学5号館(国分寺)
第2回9月17日(土)東京セミナー学院(池袋)9月18日(日)東京経済大学5号館(国分寺)
第3回12月17日(土)東京セミナー学院(池袋)12月18日(日)東京経済大学2号館(国分寺)
第4回1月8日(日)東京経済大学2号館(国分寺)1月9日(月・祝)大正大学4号館(西巣鴨)

※〈第1会場〉または〈第2会場〉のどちらか1日を受験してください。

小石川“そっくり模試”対象校

  • 小石川中等教育学校

時間割

9:15~10:0010:15~11:0011:15~12:0012:45~15:30
適性検査Ⅰ適性検査Ⅱ適性検査Ⅲ解説授業

※ 12:00~12:45は昼食の時間です。弁当を持参して室内で食べられます。
解説授業は、保護者の方(1名)もご参加いただけます。(自由参加制)

2022年度 実施日程

実施回〈第1会場〉〈第2会場〉
第1回6月25日(土)東京セミナー学院(池袋)6月26日(日)上智大学6号館(四谷)
第2回8月27日(土)東京セミナー学院(池袋)8月28日(日)東京セミナー学院(池袋)
第3回9月23日(金・祝)大正大学10号館(西巣鴨) 
第4回10月10日(月・祝)東京セミナー学院(池袋) 
第5回11月23日(水・祝)東京セミナー学院(池袋) 
第6回12月10日(土)東京セミナー学院(池袋)12月11日(日)東京セミナー学院(池袋)
第7回1月7日(土)大正大学4号館(西巣鴨)1月9日(月・祝)大正大学4号館(西巣鴨)

※〈第1会場〉または〈第2会場〉のどちらか1日を受験してください。
※第3回、第4回、第5回は〈第1会場〉のみです。

まず、小石川模試第2回を受けてください。

 
 

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