2021.09.03
初秋から晩秋、そして初冬、深まる冬の日は短く一日はあっという間に終わる。大寒も近い一月を心静かに子どもたちと過ごす。
初秋はいつも騒つく胸の鼓動に、自分に言い聞かせるように、信じるあたりまえのことを黙々とこなす。
確かに、子どもたちの出来不出来が、わたしの心の明暗を映し出す。
確かさを求めて私はあれこれと手を尽くしてきた。
しかし、このことが、子どもたちによかったのかどうか、落ちたとき、もっといい選択があったのではないか、と悔やむ。
子どもたちの志望は手の届かない憧れだったのではないか。わたしは心の奥底では、無理なのを知っていた。なのに私は子どもたちの志望を優先してきた。
しかし、期待ほど不確かなものはない。私は期待が嫌いだ。期待が報われることはないからだ。できるからと期待しても裏切られる。ましてやできないなら期待は最初から淡い陽炎のようなものだった。期待とは、最初から不安要素に満ちたものであった。
私が信頼できる心の機微、それは危なっかしい、でも着実に正解を出す、一枚一枚紙を足していくように、それは不安を漂わせながらも一枚の正確さが安心を産み出す、そんな過程であった。私の精魂込めて作り上げたレジュメに丁寧に答えてくれる、正解を出してくれる、そこに信頼が生まれる。
時間もかけないて、雑な字、殴り書きをしてくる、字が踊っている、そんな答案には絶望という言葉しか思いつかない。
私が一問作るのに、構想から制作まで少なくとも3日、最大で一週間かけて作った、精魂の一問、これを3分で「解いた」と殴り書きの答案を出してきて、思考の微塵も感じられない答えを書いてくる、そんな子に信頼など生まれるわけもない。
私と合格への道を歩む、それはわたしの期待に応えながら、信頼を積み重ねていくことにほかならない。字が暴走している、思考の欠片もない。それは私と合格への道を歩く器ではない。
私の心を込めて作ったレジュメを思考もなしに、3分で出してくる、こんな敬意を欠いた所業はないと思う。
話しは変わるが、塾生のお母様から故郷別府のお土産をいただいた。郷里が同じという偶然である。
生粋の別府生まれ別府育ちということで、よく別府のことをご存知である。
かるかんには、思い出があった。中3の頃、同級生が、かるかんを運ぶアルバイトをしていた。商店から頼まれて仕入れ先まで自転車で取りに行ったのに付き合わされたことがある。その時初めてかるかんなるものを知った。件の級友は父子家庭で、かなり困窮していた。高校には行けず、自衛隊に入ったけど、すぐやめた。知能テストが高いということをよく自慢していた。
故郷別府、高架にある別府駅から見渡す風景が懐かしい。いつも母と弟が、後には弟が、そして後には、弟家族が、私たち家族を見送ってくれた。聳える鶴見岳、扇山、ラクテンチ、六枚屏風の山々、山と海に恵まれた故郷の町。この町には、わたしの小学、中学、高校の思い出がギッシリと詰まっている。志高湖、城島高原、内山、十文字、朝見川、桟橋、埠頭、乙原の滝、明礬、餅が浜、どこにもわたしの足跡がある。どの街角にも幼き頃の私がテクテクと歩く、ハーハーと走る、肥後守のパチモノをポケットに山で遊ぶ姿がある。野苺狩に六枚屏風、岩苔を探して山を彷徨う、土筆を探してラクテンチの山に迷う、山芋を掘りに夢中になっていた頃、別府湾の埠頭ではよく投げ釣りをした。ひっかけといって、魚の群れをひっかけた。パッチンやビー玉は蓮田小まで遠征したこともある。別府の街はどこでも知っている。路地の隅々まで知っている。京大物理学研究所、九州大学温泉治療学研究所、あのあたりは鬱蒼とした緑に包まれていて、厳かだった。油屋熊八の像があったのは、流川通りを上り、山の手中学を過ぎてのところかな。子どもの頃は、広大な自衛隊の基地があったあたり、前は進駐軍が駐留していた。
高下駄に柔道着を背負って闊歩していたのは高校の頃。なぜか粋がる私がいた。街並みを忘れないように目に焼き付ける。ニチリン号、新幹線と乗り継いだ時代、いつの頃からかバスで空港へ、空を飛んで羽田へと変わった。故郷はいつも母と父とともに忘れることはない。懐かしい別府。