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力を出し惜しみする子と全力を出し切る子

2020.10.01

 

力を出し惜しみする子と全力を出し切る子
 これは何かと口実を設けて辛い試練を回避しようとする子と試練に身を投じる姿勢の子と言い換えた方が正確かもしれない。
 いやもっと簡単に、「引く」子と「食いつく」子の違いです。
 これが受験、引いては人生をも分けるということは誰しも納得いくのか、と思料いたします。
 人間というのは、この平和な日本においては、ともすれば生存競争の中に「いる」ということを忘れてしまう、ようです。
 力を出し惜しみするというのは、もしかしたら正鵠を射てはいないかもしれません。辛いことが堪えられない、苦痛から逃げ出したい、楽したい、そんな気持ちの裏返しというのが的を射ているかもしれません。これは根のところに「甘え」というのがある。何か困ったことがあれば誰かが助けてくれる、そういう甘い意識がある。これまでも誰かが助けてくれたようにいつか誰かがなんとかしてくれる。こういう心性だからいつも真剣になることはない。死闘という言葉があるがそういう言葉とは全く無縁である。困難に際してすぐ諦めるという心性もここからきている。
 勉強というのが、全くの個人的な、自身の意思、強い意志に基づいてこそ初めて成り立つという根幹となる前提がないのだ。だからいつでもいくらでも崩れる。つまり、精神が芯のところでしっかりと勉強と向き合ってない、ということなのです。

 勉強は追い求めるもの、目が覚めたら勉強のことが気になって仕方ない、いつも心配で考えている。
 勉強というのは、片時も心が離れたら消えてしまう、そういうものなのではないか、と思います。
 勉強というのは、目を離したら消えてしまう、そういうものなのではないか。
 わたしの経験で申し訳ないが、わたしは、中1になったばかりの頃、英語も数学も何もかも初めてでいつも心配でしかたなかった。だから、いつも勉強のことばかり考えていた。数学であまり悩んだ記憶はないのだが、英語は単語が覚えられなくてほんとうに苦しんだ。新聞のチラシの裏白を使ってそれこそ真っ黒になるまでスペルを書いたし、ノートにまとめてみたり、リーダーに赤線を引いたりと、それはそれは思いつくことはなんでもやった。苦手だった地理は、地理100点の級友を授業中ずっと観察した。すると何かにつけて地図帳を開いて印をつけている、それですぐ真似をして地図帳にテキストを読むたび印をつけたものである。地理の点数が90点を超えたのは、それからすぐのことであった。わたしは、勉強の方法に悩むとできる奴の真似をした。しかし、ハズレもあった。学年1番を取ったことのある級友はノートをすべて赤ペンで書いていた。これは流石に真似できなかった。理科は、黒板にびっしりと書いた板書をひたすらノートに写させる先生だった。自分で「これがいちばんいい方法だ」といつも自画自賛していた。美術の先生は、わたしの名前を何と読むのだ、と聞いて、「いい名前だ」とやたら感心してくれた。なぜか美術は5だった。英語の先生は私にリーダーを読ませて、私がアクセントをつけて誇張したら、クラスにドッと笑いが起きた。すると、「いいですね、いいんですよ」と褒めてくれた。門田(もんでん)先生は、5をくれた。当時、英検の試験委員を、されていて、英語はペラペラだった。後に、高校の先生となって、去った。これは中2のこと。中3では英語はずっと4、実力考査ではいつも90点以上でクラスでは最高点を取ったのに、定期テストでも90点以上取っていたのに、なのに4。カラクリは簡単、担任が英語担当で、自宅のある県営アパートで私塾をやっていた。今考えれば公務員の副業になるのかな。クラスの何人かが通っていたがその連中がみな5だった。なぜ? テスト前に塾で配られていたプリント、これをやっていた級友に見せてもらったら、なんと定期テストとほぼ同じ問題、ふざけた話しである。こういう教師もいたのだ。実力テストで一番取っても4なのだ。
 わたしはいつも勉強のことを心配し、勉強のことを気にかけて、生きてきたと思う。
 それが生存競争を生きるということだったのだと思っている。
  

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