2018.09.18
6月から始まった猛暑は7月、8月を灼熱の地獄と化した、ほどに暑かった。9月もやがて後半へ、ようやく秋を感じるところまできた、これまでが炎暑だったから秋の気配にほっとして安らぐ思いも心の深奥からわき上がる。このところさまざまな仕事に追われて心安まる日もない。のんびりとした小6もいて、これは正直胸が痛い。また「わかりません」と丸投げしてくる小6も出てこちらはこちらで衝撃であった。いつも思うのは、小4期、小5期になにやかやと勉強を先延ばしすることをしてきた家庭というのは、どうしても小6になって失速気味となる、これは必然的にそうなる。
話は変わるが、今年は、都立中対策として、2年前に執筆した「適性のための計算問題」(50題)の新版を執筆している。当初100題目標で、これだけで適性対策を可能とするものを狙って、かなり気合いを入れて執筆してきた。一応9月中には、目標の100題を突破しそうですが、12月までは執筆を継続して、内心200題をめざしています。このレジュメは、10月からの指導で使用する予定です。さらに、最近の適性問題の傾向をにらんで、「適性のための理科問題」の執筆に入っています。こちらは理科の頻出問題に詳細な解説を付して、深い理解を図ることを企図しております。こちらは制作と同時進行で本番直前まで実施の予定です。
執筆活動に時間をとられているため、課題については、提出から返却まで1週間を見てくださればと思います。また、規定の課題の中から自分のやりやすいもののみのみを出して、他は全く出さないという子がいますが、課題を全く出さないという子も含めて、課題処理能力なしと判断し、以後の課題は出さないこととしています。
◎ラベリング思考法の勧め
頭のいい人の勉強は頭を使っている。勉強というのは、要するに、読み書きということであるが、読むのがまず先である。読んで理解する、これはもちろんであるが、子どもたちの中には、この読み取りができないで、「わかりません」ということを言う子がいます。いいですか、そういう時に、わたしが読みながらその意味を噛み砕いて説明する、これほど虚しいことはない。自分で読み取れない子にこれからの未来の展望はない。わたしが説明してわかったとしても、意味がないのです。そういうわかり方は甚だよろしくない。勉強というのは、自ら考えて、頭の中で繋がったというのが一番いいかたちです。ですから私はそういう形を理想として指導の技術を研究してきました。私の指導する子どもたちは、思考するということを体得していく。具体的な指導は「割合」概念というものをまず子どもの脳に組み込んでいく。これは思考の根拠となる。思考の枠組みを予め用意してやる。だから後はその用意したフレームから「考えなさい」と教えている。だから、「わかりません」というのは、完全な私の指導の敗北だ。だからわたしのショックは計り知れない。「えっ」、その後のショックは計り知れない。
そもそも世間で塾というのが、わからないところを教える、というコンセプトで迷いがないのがおかしい。 違うでしょ。わからないという子どもには、まず、自分で考えるための思考フレームを構築してやる。 そして自分で考える。自分で考えて結論に到達するように環境整備させてやる。 まあ、それが理想だけど、中々、構築できない子というのがどうしてもいる。そういう子には、構築失敗というわけで、構築の補助、修復、いや手術、治療というか、「わからない」という問題を説明する。彼彼女の思考フレームに繋ぐ、そういう気持ちだ。 不調のエンジン、エンスト気味のエンジンを、押しながら走って、エンジンの回転を助ける、あれである。わたしが、説明するのは、そういう気持ちからだ。 しかし、そうやっても、自力走行できない子がいる。結局、エンジン停止ということもある。 もう、走らないかな、そういうときは、もうわたしには走らせることはできない。
さて、話しは、変わる。 学ぶ、勉強するということの、実際についての話である。学問の技についての話である。 学んだことには、名前をつけろ。名前をつけながら、進めていく。とにかく名前をつけよう。自己流の、自己の発明になる名前をつけるのである。 名前の効用については、 医療の世界では、原因不明の病気に、○○症候群のような病名をつけるのだそうな、患者はとにかく病名がないことに不安を持つ。名前があると、もう病気がわかった気になる。医者の方も名前のわからない病気には薬も出せないから、とにかく名前だけをつける。そういうときの名前のつけ方が、いろいろな症状を総称した症候群となる。 私たちは映像を他者に伝えるとき、映像を言葉に変換しなければならない。この時に、時刻という見えない時の流れにつけた名前、背景を表現する、これも名前、もちろん登場人物は名前、物も名前、雰囲気、気候、なんでも名前、だから、考えるというのは、基本、まず名前をつけることなのである。頭のいい人は、漠然とした、曖昧な、掴み難い、そういう知識に、実に的確な名前をつける。名前をつけて、初めて人間は、頭に格納できる。頭のいい人は、このことをよく知っている。 学問というのは、名前を使わなければ、成り立たない。 みなさんが、勉強していて、どうしても覚えられないことがある。そういう時は、まず名前をつけることです。そしてその名前から、その名前の実体をイメージする、そういう頭の使い方をするといいと思うのです。
◎できなくて解説見るパターンの勉強
これを繰り返していれば、本番では、まともにできるわけがない。「答え合わせ」の勉強でバカになる。こういうことばかりやっていると、 見たことのある、覚えていた問題しか解けない。未知の問題を見て、頭の中に、合わせる答えがない、こういうバカになってはいけない。大手には、いや他塾には、こんなのがうようよいる。こういう連中の勉強のやり方は 畢竟公式を覚えること、類題をたくさん解いて覚えること、そういうことになる。とにかくたくさん解いて「覚える」、いや正確にはたくさんの類題の答え合わせをして、たいていほとんど間違っているので、結局その問題の解き方を覚える、覚える勉強をやる。こういう人には、「思考」という能力は、使われることもないままに、ひからびて、錆びついて、「ない」に等しい。算数を公式で解くものと思い込んでいるバカである。ところが最近の問題は公式で解けるようなベタな問題はほとんどない。問題を読み取ってその場の判断が求められる。公式的勉強は通用しない。
◎身勝手な親の行動が行き着く先は最初からわかっていたことである
勝手に自分の都合を優先させて、塾を利用していただけで、私の理想とする指導は何もなされていない。勝手にやめて去るのもまたもともとが勝手な論理なのだから、破綻は当然のことで、知ったことではないが、 こういう勝手な親の言い分を通したのは、私の責めであるけれど、当時の子の真摯さ、子の高い才能に、もしかしたらと期待したのは、あるから、やはりわたしの責めである。勝手な論理を振り撒く親は結局自らの勝手な論理を平気で忘れてあたかも破綻を塾に転嫁してまた新たな勝手論理を言い募る。過去こういう類いの親をたくさん見てきたが、母親の勝手な論理、父親の偏執的な論理にわたしは確実に破綻、破滅することを予見、直感したものである。そしての予見は十中八九現実になることを知っている。というか、わたしには、勝手な親の言い分、主張というものが、いずれどういう局面を迎えるのか、明確に「わかる」のである。だが、そういう親にわたしの致命的な意見は言わない。そういう頑なな偏見に凝り固まった親にはわたしが何か言うことは糠にかすがい、のれんに腕押し、意味がないからである。