2023.06.22
🟡勉強とは、ネーミングだ‼️
ネーミングとは究極の要約だ❗️
私たちは、言葉、概念の定義を学ぶことから、始める。
定義とは、もともとネームのないもの、現象、事実を抽象化して、簡潔に述べたものであって、わたしたちは、定義化しさらにネーミングした。もともとある言葉は、定義化する前に、ネーミングされたものもあるであろう。ネーミングする場合、分類ということをやる。分類とは、抽象化の一場合であり、定義化も抽象化の一つである。抽象化とは、事象の共通項を抽出して、一つの上位概念とすることをいう。本来名前は名前をつけられた事象が朧気(おぼろげ)ながら名前が推測できるものであっただろう。だが、しかし、世の中には名前は他との識別記号と理解して、感覚的にそのもの本来の性質と関係のない名前を付ける人も出てくる。昨今のキラキラネームなどと言うのは、名前に意味を込めると言うより、親の趣味の傾向が強い。名前に識別の意味しかない前提である。名前とは特別のものだという意識はないのかも知れない。大名や戦国武将が自分の名前の一字を授けるという発想もない。
科学の分野でも、例えば、ロケットに愛称をつけるということはやるようであるが、化学の概念はやはり抽象化の過程を経てつけられたものが普通であろう。
人間というのは、病気になって、病名がわからないと不安になるものだ。それでとにかく名前さえあれば、安心するところがある。よく「…性症候群」という病名があるが、あれなどは特に、病名がないので、大雑把に一括りして付けた名前ということらしい。これで患者はカルテに病名が書かれてとにかく安心するらしい。「…症候群」なんてのは、原因不明の病気ということであろう。原因不明でも名前がつけば思考の整理にはなる。人間は言葉に従属する生物であるから,言葉の力は大きい。学問の世界では,特に,哲学の分野では,言語こそ主体なのではないかとして,いわゆる言語論的転回などという言葉がやたら目に付くようになった。
曖昧なものにネームをつけるのは、その曖昧さを隠す、わかったような気にさせる効果がある。わたしたちは、例えば、歴史の教科書を読んでいて、教科書というのは、とにかく名前だらけなのに気がつく。人名,地名,時代名,文化名,建物名ととにかくネーミングの結果を暗記することに終われているわけです。教科書には必ず章立てがあり,章の名前がつけられている。章はさらに単元に細分され,それぞれの項目にテーマ名がつけられている。項目は内容を抽象化したもの,要約したものになっている。
わたしたちは,名前の関係を学んでいるのである。自然科学・社会科学・人文科学のタームの名称はすべからくその内面・本質・性質から組み上げられたネーミングになっている。いわゆるキラキラネームは存在しない。二酸化炭素という名称から酸素×2個,炭素1個の集合体であることがイメージされる。名前というのは,実は,要約である。少なくとも定理・公式・理論につけられた名前は要約である。歴史に出てくる人名はもちろん要約なんかではない。わたしたちの名前と変わらない。
さて,こうしてわたしたちは,実は要約こそ学問の,勉強の本質であることを悟らなければならない。
みなさんが不得意とされる国語,特に,読解についても,その本質は変わらない。本文を読み解く過程において,一つの段落,あるいは時には一つの文章ごとにネーミングをしていくのが読解であるとわたしは考えています。段落ごとにこの段落は○○について書いているな,と理解すればそこでとりあえずあなたが名前をつけるのです。例えば,「地球温暖化への疑問」とか,それで,つまりネーミングすることで読解はあなたの頭に編み込まれるのです。ひとつひとつにネームをつける,そういう作業をしていくのが,ほかならない読解ということなのです。あなたたちの頭の中をめまぐるしく動き回っていることでしょう。
そうなのです。勉強とは,ネーミング,つまり「要約」です。あなたたちが普段から訓練していかなければならないのは,ほかならない「要約」なのです。新聞の記事には見出しというものが付いています。見出しは二段ないし三段あるものもあります。これも予め記事の内容を要約したものをネーミングしたものと考えていいでしょう。
わたしたちは常に要約するという姿勢で本を読まなければならないし,要約を実際に実践しなければならない。要約に慣れてくると,例えば,どんな段落でも,一言で決めることもできる。俗にいう「一言で言えばこうだ」という思考である。そうなのだ。なんでも一言で言うくせをつけよう。それも要約の極地なのだから。あなたたちは常に要約する人でなければならない。ここは要約するとこうだとか,これは要約するとこうなるとか,常に要約する。竹の会の課題には要約するものが多いが,その真意を汲み取っていただければ幸いである。