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勉強の意思が希薄なら竹の会はいるところではない/敵前逃亡するのは人生を敗走するに等しい/さまざまなこと

2018.10.31

 おはようございます。今日は、10月31日、いよいよ10月最後の日となりました。実質攻めの勉強ができるのは、あと残すところ11月のみとなりました。本来なら11月を「解き直し」に当てたいところですが、さまざまな理由で「遅い」ために遅れている子が多く、これが可能なのは、1、2かと思います。12月には、「解き直し」に専念できればと願っておりますが、さてどうなりますことやら。

 ◎冬期指導について

  竹の会の冬期指導は全員参加が必須となっております。申込は11月末日まで。申込のない場合、11月の指導をもって、退塾となります。

  外部生の募集は取り止めとなりました。また冬期Aの会員が冬期Bも申し込みも可としましたが、こちらも申込は終わりました。

 ◎小3、小4の募集について

  小4につきましては、ぎりぎり11月の申込まで受け付ける予定です。小3につきましては、来年の夏前までは募集を継続していきます。

  ただし、現時点で入室できるのは、「渋谷B」のみです。来年2月に、「渋谷A」の空席が少なくとも8席は出る見通しです。現在Bの生徒を除き、これから入会されるみなさまにつきましては、2月からAに変更することを前提にBに入会されることを認めております。

  入会には、竹の会所定の入会試験に合格する必要があります。入会の際に、目安となるのは、通知表の「よくできる」が8割前後あること、です。飽くまでも目安ですから、入会試験に合格すれば問題ありません。また、竹の会では、特に、小3、小4早期の子については、「仮合格」による救済措置を認めております。これは、この時期の小学生については、能力未開花のことがあり、入会試験の合格に届かないことが多いこと、実際には、小4早期入会者が、伸びていく例がかなりあることからです。

 現在、小4でも小5になる直前期、2月、3月の時期でも、仮合格を認めた子たちもいますが、入会時期が遅くなれば遅いほど、指導が成功する蓋然性は下がります。仮合格は、仮の入会であり、6か月を基準に、指導を継続するか否か、見直すことになっています。また親御さんの方でも子どもさん進捗の状況を見て、自主的に退塾を選択されることも想定しています。親御さんの判断限りで退塾するというのが、子どもさんには精神的に楽なのかと思うからです。

◎教材、指導方法についてのお問い合わせについて

 教材、指導方法についてのお問い合わせがありまして、さて、どうしたものか、と考えこんでしまいました。 

 その前に、竹の会は広報活動のための面談はやりません。おそらく23区の親御さんは、大手のどこそこの教室長みたいな人に面談していろいろと話しを聞くということをされているのだと思います。そういう方たちが、竹の会でもと思われたかどうかは知りませんが、わたしは、そこまでして竹の会を品定めしてもらい、入塾するかどうかの判断のために説明をする気はありません。それで、めでたく竹の会が選ばれるというような光栄に会いましても、他塾との競争をやる気はありませんので、どうかそういう選択メニューからは竹の会を削除していただきたいと思います。かつてはよく塾ツアーをやる母親や父親がいて、竹の会にも見学と称してやってくる親たちがいたものです。そういう親たちのなかには、大手と比較して、「竹の会に入るメリットは何ですか」などとストレートに、いや不躾に尋ねる親もいました。他塾と天秤にかけて、直接他塾よりマシなところを自己宣伝してくれという、のですが、正直、こういう親には最初から来て欲しくはない、と思います。選ぶのは、親で、塾は、お願いする、そういう前提なのでしょうが、塾を下に見るのは、やはりお客様なんだからという意識からでしょうか。
 そもそも竹の会は入会試験をやりますから、あなたたちが選んでも入れるかはわからない。つまり、あなたたちは、選べば入れると思っているかもしれないが、それはない、のです。
 ○指導方法を尋ねる問い合わせについて
 難しいですね。竹の会の指導について、わかるように説明することは難しいと思います。おそらく「草枕」の中で触れられているものを読む、たくさん読むことが、いいのではないか、と思います。たいていのことはこのブログで語られているからです。熱心な親御さんのなかには、何年にも遡って読まれた方もたくさんいました。指導方法について、知りたいなら、過去何年にも遡って、このブログを読むことである、としか言えない。それほどに竹の会の指導の内容を言葉で「これだ」と説明するのは難しい。何か言えば、それが一義的にとらえられて、これが竹の会の指導なんだと決めつけられる恐れがある。子どもたちが、レジュメによる指導を受けている光景を見て、「ブリンとやらせている」だけと理解する親もたくさんいる。なかには、公文と同じですか、などと言う親もいたけれど、そういう物事の本質を見ない親が竹の会を支持することはないから、幸いなことに、そういう親とは縁もなかった。指導というものは、こういう指導方法ですなどと単一に説明できるほど簡単ではない。強いて言えば、子どもの内面の成長に合わせて、もっとも適切な方法を選択し、いちいちその効果を確かめながら、次の一手を打っていく、これこそが指導の極意なのかなと達観している。
 それから、指導というのは、竹の会では、俗な使い方をしていません。方法は、千変万化です。決まった、指導の方法などありません。子どものありようによっていくらでも変わる。子どもの内面の機微を読み取りコロイド溶液のように指導の表情を変えることになる。

 「教材」について尋ねるのも、塾、教材、授業、講師と言ったフレームからだろうけれど、竹の会の場合、指導と教材が一体化していて、一般的な、いわゆる教材というのは、ない建前である。子どもに合わせて、教材を作るからだ。この子が苦しんでいるところを見て、次の指導日のために、教材を創る、竹の会の指導の原点はもともとそこにありました。竹の会では、教材をレジュメと呼んでいる。子どもの「わからない」に合わせて、レジュメを作る。今は、そうして作ってきたレジュメが、膨大な量に達しているので、あたかも、これが教材です、みたいなことになっているけれど、もともと竹の会には教材なんてないのである。わたしが子どもの指導に必要なものを作る、それが竹の会の教材にほかならない。とにかく竹の会に通俗的な、塾一般の質問をしても意味がない、と思います。

甘い人間はどこまでも甘い、敵前逃亡する人間の末路

 甘い人間は、甘い見通しでしか行動できない。甘い人間は、人の深い思いを知ることはない。自己の浅い、非論理的な直感で物事を判断するから、その判断は、たいてい誤っているけれど、甘い人間ほど、自信を持つ。しかし、それは根拠のない、ただの思い込みという自信である。甘い人間は、過信する。深い思慮のある人間を、その深い考えを理解することはない。甘い人間は、自己の甘さを悟ることはない。甘い人間は、人の情けも、自分が偉いからだと都合のいい考えをする。甘い人間は、意思が弱い。ただ自尊心は高く、それのみが、勉強その他のモチベーションになっている。
 敵前逃亡するこというのは、だいたいどういう子か決まっている。弱い子である。もちろん精神的な弱さである。こういう弱い子は、親の過保護、家族の甘やかしが、原因であることは過去の例の共通認識である。勉強しなくても、強く言わない親はどうしようもないが、子どもというのは、放置していれば、いくらでもだらしなくなる。だから子どもは律していかなければならない。それが躾であり、教育である。子どもが自らを律することができるようなったとき、一個の主体としての個が完成される。真の大人としての自立がある。
 敵前逃亡した子はまた敵前逃亡する可能性が高い。子の甘えを許す環境には何の変化もないからである。親が、周りが、この子がなぜ敵前逃亡したかについて、気づくことはないからである。甘い親は永遠に甘い。子に強く言えない。すぐに子がどういったか、子が好きか嫌いかと子に気を遣う。親に教育者としての自覚がない。子の機嫌をとる。子が「疲れた」と言えば、過剰に反応する。子の言うことを額面通りにとる。子が言うことを100%信用する。子の甘え、わがままを見抜けずに、子の言うがままである。子どもというのは、計算高いものである。怒られると「腹が痛い」と泣き、そのすぐあとに天ぷら屋で好きなものを頼む、それが子どもである。子どもというのは、大人と駆け引きをする。大人が困るところ、親が困るところを知っている。「腹が痛い」「あたまが痛い」「疲れた」、そういえば、親が慌てる、それをよく知っている。病気を駆け引きに使うのは子どもの常套手段である。「一生懸命勉強するから」とか、「合格したら◯◯を買ってくれるなら」とか、そういう駆け引きもある。まんまとその駆け引きに乗る、安易な親も多い。前提が欠落している。
 かつてカンニングしている子がいて、周りから不審を抱かれて、親に濡れ衣を訴えたのだろう、子どもの言い分を額面通りに受け取った親の態度が豹変した。随分と失礼な態度をとった親がいた。親というのは、子どもの言い分は文句なしに信じて、冷静に判断することはないから、つまり子どもの駆け引きにまんまと乗るから、正直始末が悪い。物事が、最初から偏っている。
「まだ小3だから」と考えるか、明治、大正なら、小3でも小僧に出したように、小3でも「かわいい子に旅をさせる」という信念か、ここで親の子を自立させるという使命感の差が出る。自分がいつまでも元気でいられると考えているほどに親は甘い。そう考えているとしか思えない。子を永遠に庇い続けられると思ってでもいるのだろうか。子に依存して自立できないのは親の方である。

 「波騒(なみざい)は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。水のふかさを。」吉川英治「宮本武蔵」八の巻のしめくくりの言。

 勉強をするのは、自分なのに、まるで勉強を他人事のように、言う子がいる。こういう子の内面は、勉強に対する恐れ、できない、できないときの保険、言い訳を予め公言しておくという計算、心理がある。もっと言えば、この子は、きっと頭はいいのだと思う。だが本当にできる奴のことを知っている。そして自分はそこまではない、それを知っている。だから予防線を張る。子どもなりの、自己保存である。そうなのである。大人というのは、予防線を張るというか、予め失敗した時の言い訳を用意して、その言い訳をなんとはなしに匂わせておくということをやる。大人というか、もう中学生、高校生だと普通にやる。わたしが違和感を覚えたのは、小学生にそのような言動を見て、大人びたずるさを見たからだと思う。

🔵問題から何を学ぶか!
 過去問解いて何を残すか。竹の会なら、レジュメを解いて、何を残すか。
 問題は、「解いて」なんぼである。解けるから成長する。解けないとき、の対応が、正直わたしにはわからない。
 解けない、という人間に、実は、為す術はない。解けないのが、合格はんこを取りながらレジュメを進めてきたのではないとして、それならそういう自分の能力の無さを自覚して解き直す、分かろうと考える、とにかく苦しんできたか、である。それでもできるようになるか保証はない。子どもは、能力の限界を感じながら、苦しんでいるのだと思う。諦めないで努力する、これは誰も否定することはできない、必須の生き方であろうと思う。ところが、さっと現実の苦しさから逃げ出す子もいる。敵前逃亡する子である。とにかくわからないながらも必死で勉強する子はとにかく戦っている。人生を生きている。逃げる子と向かっていく子のどちらが、頼もしいか。人生は生存のための競争である。逃げる人間は生存の可能性を自ら放棄している。そもそも逃げる子には、生命力がない。生きるこだわりがない。生存競争を勝ち抜くDNAが希薄である。それは生存競争しなくても、裕福な家庭環境という温室の中にいるからである。もし親が人生が生存競争だということを教えてきたなら、子の中のDNAを殺すこともなかったのに、親は子がかわいいあまり、子から生存のためのDNAを死滅させてしまった。
 さて、立ち向かう子に、何を指示したらいいのか。わたしの示せるのは、「型」しかない。
 型とは何か。問題の型であり、解き方の型であり、答案のスタイルである。
 頭の悪い子に、奇跡をもたらす妙案はないか。解き直しを励行するのも、型を覚えさせるためである。型とは、フレームである。よく頭の悪い子が、問題を覚える、解き方を覚える、これがダメなのは、具体的な事実のレベルで暗記しようとするからだ。これでは、極端同一問題しかできない。問題のフレームを、構造を、骨格を、覚える、のである。
例をあげる、
ある水槽は、A蛇口だと15分で満水になる。B蛇口だと18分で満水になる。AB同時に水を出すと何分で満水になるか。この型の問題を解けない小6がいる。ここでこの問題のフレームが、単位あたり量のフレームだということを理解していれば解ける。これが頭のいい人の対応である。頭の悪い人にはこの対応がない。問題を覚える、解き方を覚える、本質を悟らないから、少しひねればこける。わたしは、頭の悪い人にもこのフレームを覚えて、やれとわたしは言っている、のである。
 これは単位あたりの思考フレームで解けるのだということを覚えろと言っている。具体的に事実として覚えるのは、なんの実を結ぶこともない、愚かな行為だ。
 7回解き直しで、このフレームを頭に叩き込めということである。7回解き直しを誤解してほしくない。同じ問題を何回も解いて、答えも式も覚えてしまうことではない。そんなものは覚えなくていい。問題からフレームを抽出し、その型を覚えろ、と言っているのである。

 

 

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