2020.07.11
◎勉強は情熱がエネルギー
意気込みを感じない子は受かることは決してなかった。
試験というのは、「なるようになる」ことはない。意思がなければ受からない。意思があればそれが行動になる。必死の心が運命を動かす。どうしても受かりたい、絶対に合格したい、そう思わなければ受かることはない。成り行きで受けたら合格した、という話など信用しない方がいい。私たちはたまたまの天才の戯言などにいちいち心を揺らすこともないし、大手のまやかしに騙されてやりかたで受かるなどと信じるほど牧歌的でもないはずである。
「お母さんが勝手に受検と言い、わたしを塾に入れた」などと受検直前になって言う子が受かるはずもないのである。そんなに受検したくなければ、なんできっぱりと拒絶しなかったのか、なぜ直前になってそういうことを言うのか。こういう子は昔からいた。
合格したいという意思は強くあっても、努力をしたとしても、合否は神の悪戯に似て、結果はいつも気まぐれである。
ただ、勉強が足りなかったから落ちた、というのは、如何にも収まりのいい説明である。
そうではあるまい。つきまとうのは、やはり地頭がいい子が受かる、のだという隠せない真理である。
君たちはいつしかテキストを終わらせることが、実力をつけた、と同じことと、錯覚をするようになった。7回解き直しをすれば力がついたと思い込むのは勝手だが、君たちは、もうそろそろ問題の本質がそういうところにない、ということを悟らなけれならない。
「受かる」子というのは、受かる素質を備えている子である。
直前に緊張感の感じられない姿を見てわたしがどれだけ失望していたか、緊張感がないというのは、情熱がないということの裏返しである。情熱があるから試験が近付けば怖さを知る、だから緊張する。
なにか周りの人がいいように取り計らってくれる、と信じてる。根のところでは、甘えが見て取れる。この甘えがなかなかの曲者で、自分の身の丈が試される段になると、途端に逃げる、回避する。
話しは、あまり関係ないが、模試に関して、受ける回数を極力減らそうとするとか、会場受験を避けて自宅受験を選ぶとか(それなり言い訳はする)、こういう行動ももしかしたら、逃げる、回避する意識からの行動かもしれないのである。模試を回避する子が、決して受かることはないのは、そういう事情がある。
違うのだ。受検、受験というのは、必死な姿、重圧に耐え忍ぶ心、絶対に受かるという強い意思がなければ成功はしない。これは、勉強に対する情熱である。勉強にかける気持ちが強ければ強いほど、勉強を何ものにも代えがたいと思うほど、行動もそのように規制される。部活、習い事、稽古事、ゲーム、テレビなどに時間を使うことなど考えられないのである。そういうことを許容する心がある限り、合格などありえないと諦めた方がいい。
情熱の発露たる、燃える目にこそ「受かる」根拠を見ることができる。受検直前にヘラヘラと笑う子に何を期待できようか。緩み、根拠のない自信、弛緩した生活姿勢、おしゃべり、そういうものから、深奥に、甘えの本質を見るのは、わたしだけの習性であろうか。
生死を分ける戦いに、緊張しない人間なんているのか。野生の動物は、獲物を狩るのに、全力をかけるという。それはそうだろう。食べなければ死ぬから必死のはずだ。戦いというのは、本質的に空腹でなければ絶対に勝てない。それが動物がこの地球上にあって今まで存えてきた掟である。生存競争というのは、空腹を満たす、つまり生きるための生死をかけた戦いである。たかが試験で生死をかけるなどとは大袈裟だという人がいるかもしれない。しかし、人間は社会制度の中で社会のルールの中で生存することが定められている。入試に勝ち抜いて将来に飯の食える職業を得ることは、生存をかけた戦いにほかならない。極端に言えば、職業を得なければ死ぬ。どんな職業でもいいのかということになる。人間社会は職業によって収入、社会的地位まで規定される。私たちはそこのところを漠然と考えてはならない。そういうことに目を逸らして人生を空想してはならない。私たちは戦いの当事者なのである。戦わなければいずれ食っていけないところまで追い詰められる。確かに、世の中はそんなに単純ではない。働かなくても親のスネをかじっていけるかもしれない。フリーターになったからといって食っていけないわけではない。若者が搾取されるという社会に、食っていければいい、というならそれもいい。
しかし、私は、増え続ける人口、夥しい人類の混沌の中で、そのような生き方をすることが、生存することなのか、と問いたい。
わたしは、人間として、食べていく、ということの意味を問いたいのである。ただ食べていくことが生きることではあるまい。
結婚し、子を育て、子を独り立ちするまで、育てる。衣食住を確保し、安定して、家族を食べさせていける、現代社会における生存とは、太古の人間、縄文、弥生時代の部落社会における生存とは明らかに違う。複雑な制度に規制された社会の生存はそうした制度を前提に生き残ることである。経済格差、貧富の差が、歴然とした社会である。
私たちは何が生き残ることなのか、本能的に悟っている。勉強することが、この社会を生き抜く、もしかしたら唯一の方法なのかもしれないということを悟っている。
受検、受験という試練は生存のための戦いである。都立中学受検や私立中学受験は、受けるかどうかは自由であるが、高校受験は避けられない。大学受験はもちろん自由である。
つまり学校に行くかどうかは、自由である。しかし、学校に行かなければどうなるか、もしかしたら生きて行けないかもしれない。生存ということからは私たちは学校に行くしかない。勉強するしかない。
生存するために、生き残るために、学校に行く。
だから、必死になる。
ここで甘えを持ち込むバカにはなって欲しくない。