2020.12.15
◎勘違いしないでください!
その問題が解けるようになるのが目的ではありません。
その問題をどこまで深く考えられたか、が問題なのです。
解説聞いて先へ進める。それから何回も解き直しをする。そういうことを私は求めておりません。あなたたちが、その問題で意味ある思考をしたのか、を問うているのです。一読して「わからない」、それで説明を求める、竹の会の算数レジュメはそのような使い方を想定してはおりません。
たくさん説明してもらった問題の解き直しをしてその問題が解けるようになったからといって、だからといって、新たなる未知の問題が解けるようになっていると、思いますか。ほとんど思考の力は使ってない、来なかったではないですか。解き方を覚えた分、問題を見る目が少し変わった、似た問題や類似問題だけに頭が働く、だから未知の問題を見たらすぐ自分の解いた問題に似た者はなかったか、思い出そうとする。そういう頭の働き方を条件付けていることに思い至りませんか。
わからないと言ってくる子は、その頻度が多いことが特徴です。酷な言い方をするようですが、その程度の問題が「わからない」と言うようでは実は見込みはないのです。例えば、小石川に合格した子たちが、普通に解いていた問題を「わからない」と持ってくること自体、一つの限界を示しているのです。
「先生、何時間も考えたのですが、解けませんでした。この問題の解説をしていただきたいのですが」
なるほどそういうこともあるでしょう。しかし、それでも当該問題の解説をしてやるのか、私には迷いがあります。まず私の問題を小石川合格者たちが「わかりません」と投げ出したことがほとんどなかったからです。27年に桜修館に合格した女子などは問題を持ち帰って何日も考えたそうです。そしてたいてい何日かして提出してきました。あまり提出してこないので、私が心配して声をかけると「今考えていますので、もう少し待ってください」と言ったものです。流石に長いので私が助け舟を出したこともありました。その子を見ていると、私には、考えるというのはそういうことなのだという安心感がありました。
解説聞いて「わかりました」、はい、それでは次の問題、そういう子は解説頻度が高い。また解説を聞いた分、思考はつかないから、詰まる、わからない頻度も多くなる。わからないという子は思考がつかないままに、つまり空回りの勉強をすることになる。
かつてわたしが説明するとさっと席に戻る、そして次にきたときはもう次の問題を出してくる。こういうことを繰り返していた子がいましたが、説明聞いたら少なくともノートにまとめるなりのことはする。それから次へ移る、そういうことなのではないかと思うのですが、不思議な子でした。
あなたたちは過去の問題の解き方を覚えるのではなく、未知の、未来の問題にどう対するか、を問われているのです。
これまでの解き方を改めない限りあなたたちは浮き上がることはない。ちょっと問題読んだだけでもう「わからない」と投げる。厳しいことを言えば、実はそういう子はもともと才能がない。今年、小石川に受かった子は入会したての頃は、ちょっと考えてわからないとすぐ持ってきたものです。「わからないの」と聞くと首を縦に振る。この子はほとんど声を出さないで、首を横に振るか、縦に振るか、であった。そうである。わたしが問いかける、問いかけなければ前に進まない、そういう子だった。私がもっと「考えろ」と言うと席に戻る、しばらくしてまたやってくる、「わからない」と首を振る。それでこんなに簡単だよと教える。そういうことを繰り返しているうちに次第に考える時間が長くなる。どうやら考えるということの意味がわかってきたようだ。この子は小6になるともうほとんど私に聞くことはなかった。とにかくわかるまで考えた。そういう子には滅多に巡り合えない。たいていは新しい、見たこともない問題が出てくるともう投げる、「わからない」、「もう随分考えたけどわからない」と訴える。「もっと考えろ」と言うと、「もう、考えました」と言う。考えるということの意味が理解できていないのだ。一度考えた人間ならわかるまで考える。わかるまで終わりはない。考えるというのは、考え続けるということであり、考えるに、過去形はない。考える人は考え続ける人であり、もう考えたからというのは、少し時間が経ったというほどの意味しかない。考えたというが、そんな短い時間で頭の中はどうだったのか。問題を読んで、問題の意味を何%理解できたのか、事実の意味をどこまで汲み取れたのか、事実関係を図にかけたのか、ツッコミたいところはいくらでもある。要するに、何も考えていないのである。考えたの痕跡が何もないのだから。でも「考えた」という。
勘違いしないでください。レジュメは解き方を習って、「わかった」として、先へ進めるテキストではない。竹の会のレジュメは検査のための機械である。どれだけ考えたか、どれだけ苦しんだか、どれだけもがいたか、そういうことを計る機械である。わからなければどこまでも考える。考えるに終わりはない。使い方を誤るから伸びないのだ。
竹の会のレジュメで「合格」が取れないなら、実は、合格の目はない。
竹の会のレジュメは思考検査の機械である。特に、段々と高度なレジュメになると、それまでの思考の質が問われる。ここで不合格をとるというのは、思考形成に失敗したということにほかならない。そういう子の中にいつも「わからない」と聞いてばかりいたという子がいるのは当然のことだったのである。
○模試と本番の結果
まず、都立中入試と高校入試は、分けて考えなければならない。ここで、問題にするのは、都立中入試である。
竹の会では平成22年から早稲田進学会の模試を推奨してきた。その前は、日能研とか、大原とか、ほかに知らない模試を受けていた子もいた。22年に桜修館に受かった杉山太一君は、日能研の模試だったが、なにしろあそこの模試は受検者が少なすぎる。母数が低い。参考にも何もならない。ここの模試で70%未満の評定をとって受かった子はいない、
竹の会では、大原を受ける子たちも多かった。ただ大原の模試は、例えば、合格可能性80%取っても本番は落ちた、70%でも落ちた、50%で受かった、と合格可能性の数値がまるで信頼できない。ただ40%以下は流石に受かっだ例はない。
私は22年〜27年までの早稲田進学会の模試は、信頼していた。22年の小石川模試は、受検生480前後を集めていた。あの時、竹の会の小6が5番で名前を載せた。この男子は、3回受けて3回上位に名前を載せた。この時から竹の会では早稲田進学会の模試で上位に名前を載せるのが当たり前になった。26年までは5回受けて5回名前を載せるのが当たり前だった。異変が生じたのは、27年指導の子たちだった。小石川志望の子たちが全員名前を載せた。受かったのは5回全回に名前を載せだ女子が1人のみだった。4番を取った子は落ちた。中には、適性IIと適性Ⅲが竹の会の合格者の点より高かったのに、適性I、つまり作文が0点で落ちた子もいた。試験時間を勘違いして、間に合わず字数不足で、0点とされた。早稲田進学会の模試で上位を取った者が落ちたのは初めてのことで、この年から早稲田進学会の模試で名前を載せても受からない子が出るようになった。ただやはりこの模試で名前を載せられなかった者が受かることはなかった。ただそれはこれまでのことでこれからのことはわからない。富士は例外でこれまで富士の合格者が早稲田進学会の模試で名前を載せたことは一度もない。さらに奇妙なことに富士の合格者は大原の模試で合格可能性50%とされた子ばかりである。
都立中高一貫校の模試は母数に欠陥があり、そのまま信頼できるないとうことであるが、そのことは、模試の結果が悪くても受かるとうことを、意味しないのは当然である。
都立高校入試と模試
東京には、進学研究会のV模擬と新教育研究会のW合格模擬がある。どちらもかつての業者テストである。この二つの模試は、今は、塾が大きな役割を担っている。かつてはもちろん学校で実施されていた。大手塾ももちろん都立はこの模試を使う。大手塾はW合格模擬を使うところが多い。他方個人塾はV模擬を使うところが多いようである。実は、竹の会もずっとV模擬でやってきた。ところが渋谷教室に移転してから、親御さんからV模擬とW合格模擬の合格基準値が違う、大手に行っている子はW模擬で足りないので、駒場を諦めた、というような話しが舞い込んできた。確かに、Wの方が基準値がかなり高い。これで志望を、諦める、下げる人が大手には多いらしい。竹の会はV模擬で迷ったことはないし、判定Cでもわたしは合格を取ってきた。これはどうしたことかと思って、このブログでも何回か詳論したことがある。ただわたしはV模擬でも、Wでも信頼している。とにかく都立駒場なら駒場の全受験予定者が受けるのだから、母数が多い。ただ私立でこのデータを使うのは無理。独自校の判定はどうか。まず共通問題のデータは使えない。独自問題は問題の質はともかくここでも母数がしっかりしているので使える。つまり、都立高校入試には模試が有効ということである。ただこれだけではだめ。私は過去30年分の過去問による検査、まあ、血液検査みたいなものですが、これをやる。血液に異常があれば原因と対策をやるように、わたしは原因を考えて処方する。